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母の闘病 2016年

今回と次の回に分けて母との闘病記録を書こうと思う。
私の記憶と思いを残したい決意と、
もしこの記録が誰かのお役に立てたら・・などと図々しい思いがある。
何故そんな図々しい思いでいるかというと、母の病状は
後半激しく痛みが出たので、それを一番近くで見てきた
経験と緩和ケアの大切さを誰かのお役に立てたのなら
母の痛みが昇華されるのではないか・・なんて思うからである。
どこまでも母びいきな記述になる事をお許し願いたい。

ただ、現在病気と闘っていらっしゃる方、そのご家族の方には
辛い部分もあると思うので、そういった皆様はどうぞ飛ばしてください。

はじめに書いておくと、
2017年に他界するまで、
癌が発覚してから母は一度も私の前で弱音を吐かなかった。
全てを覚悟して生きていたのかなとも思う。
そんな私の最強で最愛の母、邦子の2年間を思い出していきたい。
(あえて母の名前まで出しちゃおうと思う)
もしよろしければ、長文になるが最後までお付き合い頂けたら幸いである。

初めて母の異変を知ったのは2016年5月のGW。
私はイベント現場に出ていて、
それが終わったころの夕方の時間に携帯がなった。
「転んで痛くて動けない」
母は私が現場なのを知っていて、前日から動けなかったようだが
1日半我慢していてくれていた。
急いで実家に行くと、テーブルに突っ伏して動けない母がいた。
外科の範疇だと思ったが、私は急いで主治医に電話をした。
(その病院は、休日は先生の携帯に繋がるようになっていた)
電話口の先生は、「多分その状況だと頭ではないようだから、休み明けに
整形外科受診でいいと思う。それよりも、前回のレントゲンで
肺に影があるから、そっちの方が心配なので精密検査を至急受けて欲しい」
とおっしゃった。
“ガンなの?!” 私の頭は真っ白になった。母に問いただすと、
レントゲンの結果を知っていたのに、
仕事が忙しいのを理由に再検査に行っていないとの事だった。
この日から、母と私の闘病二人三脚が始まった。
ある日突然、普通に暮らしてきた「日常」がどん底になるという経験を
初めてした。空はいつものように青くて、太陽は明るくて、人々は
いつものように街を行きかっているのに、母と私だけ暗闇の中に取り残されたようだった。

手術までの流れは、動揺していたせいもあり、あまり記憶がないが、
とにかく一刻を争うと思い、検査や診察のアポは私が全部やった。
幸い、転んだ部分は骨折などはなく、肺の方に専念する事になる。
大きい病院で診察になり、CTや詳しい検査をして肺癌の疑いが高いので
7月に手術をする事になった。
手術前のCT/MRTでは、頭にもごく小さい影が見えていたが、
執刀の先生はそれは保留にして「ステージⅠb」という事だった。
手術は5時間程度に及び、手術中の模様は別室のカメラで見られるように
なっていたので、夫と2人で様子を見ながら待った。
手術後に、摘出した部分を見せながら主治医からの説明があった。
生検の結果も癌で間違いないとの事。
まるでコピー機の壊れた部品を交換しただけのような、
無機質な説明を立ったまま聞いた記憶がある。
今思うと、すでに脳に転移があった訳だから、
この時点でステージⅣだったのだろう。

手術後はそのままICUに1日入り、翌日には病棟に戻ってきた。
母曰く、ICUの担当の看護師がイケメンで良かった・・と開口一番に
言われた時には、心配させない為なのか、冗談なのか、呑気なのか・・
二人でその話を聞いて笑った記憶がある。

手術翌日から、リハビリが始まった。体にはまだ脊椎に入れた麻酔や
肺からの血を抜く為の管などが数本ついていたが、毎日病棟内を看護師が付き添ってくれて歩くように言われたらしい。
営業成績表のような歩数を記入していく表を貰っていて、母はすさまじい早さでその表をクリアしていった。
よっぽど早く仕事に戻りたかったのだと思う。
洗濯物などを取りに、私はとにかく毎日病院に行った。
家族としては大きな手術なのだが、1週間で退院となった。退院後は、私の暮らすマンションでしばらく一緒に生活する事にした。

癌の「標準治療」は手術・抗がん剤・放射線治療と言われているが、
母は元々「肺線維症」という肺が固くなっていってしまう病気を持っており、抗がん剤をすると肺が急性増悪という命に関わる症状を発症する確率が高いという事で、抗がん剤を使えなかった。
なので手術をしたのみという状況だったので、これが後に体のあちこちに
出る不調の原因だったのか、今はもうわからないのだが、安心したのもつかの間、ここから色々な症状が発症してくる。

8月に入ってすぐ、母は突然足の激痛(主に付け根付近)を訴え、
歩けなくなった。
CTを撮っても骨折はなく、癌の骨転移でもない。
整形外科をいくつか回ったが、原因わからず痛み止めを出されるばかり。
しかし、飲む痛み止めは効かずに、お風呂にもトイレにも介助が必要になってしまった。慌ててマンションに介護ベッドなどをレンタルをして急いで色々なものを揃えていった。
知人に紹介してもらい、ちょっと遠いが腕のいい先生の病院を受診した。
この先生の打ってくれる注射があったようで、ほぼ毎日車で母を連れて行き、注射に通いだした。

3ヶ月位通っただろうか。
母はだんだんと自立歩行が出来るようになり、最後には元の通り
歩けるようにまで回復した。またもや母の仕事への執念を感じたのを覚えている。歩けない期間、私もリビングに置いた介護ベットの近くに布団を敷いて寝ていた。しかし私が夜中まで仕事をしなければならない時は電気を消してPCの明かりだけでやっていたのだが、そんな時母は起きてきて、よく夜中に二人でオレンジを剥いて食べたものだ。
あの頃、母は夜中に何度か起きるようになっていたが、深夜に二人で他愛もない話をしながらオレンジを食べた日々は、つかの間の幸せな時間だった。

秋になって、母の体調もだいぶ良くなってきたので、マンションから母の自宅に戻っていった。
私の中では、頭に転移したかもしれない「影」の事が気になっていたが、
主治医からは何も言われず、母も翌年に控えた大きな仕事に夢中になっていたので、まずはこのまま年を越す事になる。
これが、母と過ごした最後の年末になった。

ここまでが2016年の闘病の記録。
文字を打っている時に涙が止まらなくなってしまい、
なかなか文章が先に進まなくてだいぶ時間がかかってしまった・・・。
でも半分書き終える事が出来た。
次の回では2017年の事を書いていきたいと思う。

ここまで読んで下さった方には私のつぶやきのような記録に付き合って
下さって感謝申し上げます。

皆様にとって、明日も穏やかな一日でありますように。


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