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自虐大好き女子です!

皆さん、自虐好きですか?自虐は適度に使えば人間関係の潤滑油にもなるし、あえて自分を下に見せることで相手からとっつきやすいと感じてもらい、結果的に初期段階で砕けた仲の良い関係にもっていくことも出来ますよね。

しかし……度が過ぎれば自虐は時に痛々しく、聞いていられなくなります。そして「その自虐って全部フォローをしなければならないの??」と面倒な気分になってくるでしょう。

このようなデメリットや自分に与えるかもしれない精神的ダメージをひっくるめても、私は自虐が好きです。一種の即興アートのようにさえ感じて、日々自分に対して心の中で自分に自虐的発言を投げつけながら「今日は冴えてるな」とか「月並みすぎるかな?」などといい塩梅の自虐セリフを日々模索する毎日です。

どれだけ技術的高みを目指すことができるのかが、中国雑技団の芸術で、どれだけ至高の美を求められるかが音楽や芸術などの美的芸術だと思います。(まちがってたら(m´・ω・`)m ゴメン…)

自虐はその反対です。どこまで自分を低められるか。目指す先はマントルよりも先のこの世の最低地点。低みの限界を探り、習慣により鍛えられた圧倒的語彙力を駆使して、自分の痛い所や変に誇りに思っているところをあぶりだし、そこを徹底的に叩きのめすといった精神的プロレスにも似た芸術なのです。

通常は、「まあ、普段自分を馬鹿とは言っているけれど、英語はそこそこできるし、学歴も悪くはないよね()」とか「顔だって最悪だけど、目だけは悪くない気がする()」といった醜いうぬぼれの芽を察知したら一瞬で根こそぎハイターでやつけます。まずはうぬぼれに対する反論、そして反論の根拠となる実例。そして自分を刺す圧倒的トゲトゲワードでとどめ。気の利いた自虐セリフが完成すると一人でニマニマし、そして数秒ニマニマし終えた後はさっきの自虐に対し「センスを微塵も感じないし、自己保身的なところが見えて醜さを感じた。それにニヤニヤ顔がブスいぞ」と自虐感想を言い終え作り直し。それを数ループ繰り返すのがルーティーン。

文章化すると面白味もなく、くだらないし無意味に思えるこの行為なんですけど、時にいいこともあるんです。

それは、「多角的にものを見る習慣」が身につくんです。例えば、誰か嫌いで、自分視点からすると圧倒的に「相手が悪い」と思える状況があったとしましょう。

例えば、駅のホームの壁際にたって読書をしつつ電車を待っているとき、歩きスマホをしているおじさんがぶつかってきたとします。私はぶつかりおじさんだと判断して、ムっとした顔を作り相手を見上げます。そしたら、それに気を悪くしたおじさんが私に対し(理不尽にも)こう怒鳴ってくるのです。「おい!周り見ろよドブス!!!本なんか読んで邪魔なとこ突っ立ってんじゃねーよ!!!デブが!どけ!どけえええええ!!!」

おじさんの怒鳴り声に委縮し固まってしまった私は、ぼそぼそ謝罪をした後さっとその場を離れてしまった。しかし、後々考えると、私は壁際で誰にも迷惑が掛からない場所で本を読んでいただけ。一方相手はもしかしてわざと自分にぶつかってきていたかもしれず、しかも相手は歩きスマホをしています。あまりの理不尽さと暴言のひどさに、ちょっと泣きそうになりながら悔しくて悔しくてたまらず、おじさんを心の中で罵り上げます。

このようなときに「自虐テクニック」は使えます。まずは自分を客観視し、自分の非を洗い出します。自虐に最も必要なのは自己を客観視する力。いかに自分の悪いポイントを他者目線で見つけられるかが勝負。
・壁際とはいえ、公共の場で周りを見ていなかったこと。
・人がいてもよけなかったこと。

そして相手の立場に立って、あったかもしれない可能性をなるべく列挙すること。次に使うテクニックは、どう考えても自分に正当性がある、といった思い込みを覆す、「ひっくり返す技術です。」
・相手は足腰が悪く壁に手をつきながら歩いていたかもしれず、絶対に通らなければならない動線に私が立っていたこと。=配慮のなさ。
・おじさんはイライラしていた。汗水たらして労働に励み、痛む足腰を引きずりながら労働をしていたおじさんにとって、読書をする大学生は存在すら邪魔だった。
・私の立ち位置がそもそも周囲の邪魔になっており、皆を代表しておじさんは私をしかりつけた。
・以前私は雑踏の中でおじさんの足を踏んだりカバンを蹴ったりしたことがあったのかもしれない。その時のことを覚えていて、おじさんは正当にも私にクレームをつけた。
・おじさんは直前に誰かに理不尽に怒鳴られて腹を立てていた。その相手がちょうど私のような年齢の女性だった。おじさんはその理不尽に怒鳴ってきた女性に対する報復として仕方がなく手近なところにいた女性に怒鳴りつけた。(女性に対する恨みを抱えて変な犯行に走るよりよほど健全)
・おじさんは視覚障害をかかえていた。壁を頼りに歩いていた矢先私にぶつかり、こけそうになった。実はおじさんは骨粗鬆症も抱えており、次転んだら寝たきり生活になる危険性があり、私にぶつかったときに、「転んでしまうかもしれない」と大変動揺してしまった。
・おじさんは精神障害を患っており、「絶対にこの動線しか通らない」と決めながら毎日駅を歩いていた。しかし私がいたことにより、こだわりを貫くことができずおじさんは動揺した。
・おじさんはHSPで、ぶつかったときに見せた私の不満顔に心が非常に動揺した。だから意図せず攻撃的になってしまった。
・おじさんは、何かの病気で攻撃的になる副作用を持つ薬を服用していた。
etc……

多少無理にでもいいから、あらゆる可能性をたたき出し、
①おじさんの怒りが正当性を持つ可能性があったこと
②おじさんの怒りに正当性がなかったとしても、障害や病気などで仕方のないことだったので、おじさんを責めることは出来ないこと
➂そもそも私の行為が悪かったということ

などとして、一見揺るがなさそうな自己の正当性を出来るだけ揺さぶってみる。自分が悪いという状況がいかにして作れるか苦心して仮説づくりに励み、また
・そもそも私も普段歩きスマホをするのだから、人のことを責められない
・私も人にぶつかった経験がある。その際不快に思ってもそれを顔にしか出せなかったが、今日のおじさんはクレームを口にする勇気があるという点で私より優秀な人間である。
・そもそも私の来ている服は低賃金で働くインドネシア人の人々の労働搾取があってのことだ。そんな加害者側にいる先進国の人間は、人の行為をとがめる資格はない

などと、異なる方向性からの可能性も忘れずに探っていく。

どうだろうか。自己客観視(痛いところを突く技術、自己に対する冷静で冷酷な態度)とひっくり返す力(前提を取っ払い可能性を探る力)といった自虐に必要な力を駆使して、いかに理不尽な状況にあっても相手に対する怒りをこれらの思考によって消し去り、自分に反省を促しさえする。他者にすこし寛容になれるし、自分の気分も穏やかになる。

もちろん、本当に自分が落ち込んでいるときは、名一杯自分の見方になる。鬱になったら元も子もないからだ。病気は思考をにぶらせ、それは私の本意ではないから。しかし、精神と脳の働きが健全であるときには、自分の正当性や自分の信じたいものの正当性をあえて疑ってみるというこの自虐力は、物事を客観的に見る訓練にもなるし、それに物事に寛容になれる。


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