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いつか観た映画・『異人たち』(原題:All of us strangers、アンドリュー・ヘイ監督、2023年、日本公開は2024年)と『異人たちとの夏』(山田太一原作・市川森一脚色・大林宣彦監督、1988年)

『異人たち』(原題:All of us strangers、アンドリュー・ヘイAndrew Haigh監督、2023年、日本公開は2024年)という映画が公開されているという情報を若い友人に教えられ、矢も楯もたまらず観に行った。ほんとうはもっと時間が経ってから書こうと思ったのだが、記憶が鮮明なうちに書きとどめることにした。

イギリス映画『異人たち』は、山田太一の小説『異人たちとの夏』を原作にした映画である。『異人たちとの夏』は、1988年に市川森一脚色、大林宣彦監督で映画化されている(以下、原作小説と区別する意味で、大林版『異人たちとの夏』と称する)。
大林版『異人たちとの夏』と『異人たち』を比較して論ずることは、もうさんざん行われているであろうし、これからもさまざまに論じられることになるだろうから、私の出る幕など微塵もないのだが、自他ともに認める「大林監督の筋金入りのファン」(岡田林太郎『憶えている 40代でがんになったひとり出版社の1908日』コトニ社、2023年)としては、『異人たち』を観ないわけにはいかない。
『高原へいらっしゃい』(山田太一脚本、1976年)、『淋しいのはお前だけじゃない』(市川森一脚本、1982年)と、幼少期から10代前半にかけて影響を受けた山田太一さんと市川森一さん、そして大林宣彦さんの3人がタッグを組んだこの映画は、私にとって何よりも大切な映画なので、ひたすら好きというほかなく、冷静に論ずる資格はない。映画とは要するに、好きか嫌いか、なのである。
なのでどうしても、『異人たち』を観る際には大林版『異人たちとの夏』と比較してしまう。
ところが、観ているうちに、『異人たち』は大林版『異人たちとの夏』のリメイクではなく、原作小説の『異人たちとの夏』を読み込んだ上で、さらに主人公の内面を掘り下げるような映画であることに気づいた。
主人公の脚本家が、自分の故郷で、12歳のときに死に別れた両親とふと出会う、というその出会い方や、両親との最後の別れの場面など、大林版を思い出してつい涙ぐんでしまうところはあるのだが、シノプシスは同じでも、描かれる親子の距離感は、まるで違うのである。
大林版では、死んだ両親と再会しても、主人公である息子は自分の人生について多くを語らない。死んだ両親も息子のその後の人生を問うことなく、つかの間の幸福を噛みしめる。一方で『異人たち』は、主人公が自分の歩んできた人生の苦悩を死んだ両親に赤裸々に打ち明けるのである。つまり主人公の孤独をより深く掘り下げて描いているのである。
もう一つの違いは、『異人たち』は主人公と死んだ両親、主人公と同じマンションに住む恋人の4人だけでストーリーが展開する。主人公の生きる世界は、3人の異人(両親と恋人)たちとの間だけで完結しているようにみえる。ところが原作小説も大林版も、この4人のほかに、主人公のまわりで「正気」に戻す人たちがいる。その代表格が、テレビプロデューサーの「間宮」である。間宮がラストシーンで「どうかしてたんですよ」と主人公をなだめるが、そのような救いのある人物は、『異人たち』にはいないのである。その救いのない孤独感をひたすら描いていることこそがこの映画の本質なのかも知れない。

しかしこんなことを比較して論ずることにどれほどの意味があるのだろう。まったくの自己満足に過ぎないことは百も承知である。なにしろ私は、大林版『異人たちとの夏』が揺るぎなく好きなのだから。


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