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3「あなたはうつ病だからドナーにはなれません」

https://note.com/good_mimosa757/n/n31348b50b33f


 三日前、実に一年半ぶりの掃除をした。夫がゴミを時々捨ててくれるので、テレビで見るようなゴミ袋が山と積まれた汚部屋というわけではなかったが、それでもゴミで覆われた床は、わずかにできた飛び地を足がかりにして移動しなければならないような大変な有り様であった。正直、いつビニール袋などを踏んで転倒事故が起きるかもわからない状況だ。明日は掃除をしよう、明日は、明日こそは……と思いながら毎日を布団の中で過ごし、去年の年末の大掃除も全く手をつけられずに終わって、つい先日まで放置してきた。それにようやく手がつけられたのである。その数日前、私はX(旧Twitter)で闘病アカウントを作った。以前愚痴アカウントとして作り放置していたものを転用したもので、フォローフォロワー数0の状態から始めたものだ。私には趣味について呟く別のアカウントがあるが、共通の趣味を持つフォロワーさんたちが楽しそうに話している場に暗い話題を持ち込みたくなかったし、余計な心配もかけたくなかった。何より、同じ精神疾患のお友達が欲しかった。精神疾患のつらさは、なった人にしかわからない。私は元々落ち込みやすい性格だったが、実際にうつ病を発症して比較してみると、『普通の落ち込み』と『病気の落ち込み』の間には圧倒的な違いがある。うつ病を甘えという人は、多分、うつ病を『普通の落ち込み』の先にあるものだと思っているのだろう。とにかく私は新しいアカウントで、早速何人かフォローしてみた。私よりずっと病歴が長い人、希死念慮の強い人、精神疾患を抱えながらも頑張って働いている人、今まさに歯を食いしばって精神疾患と闘っている人。今日こそは汚部屋の掃除をしたい、という私のポストに、一人♡をつけてくれた人がいた。少し調子が良かったこともあり、私はいつものように布団に潜り込みたいのを堪えて掃除を始めた。リビングと寝室の二部屋を、途中で頓服薬を飲みながらも8時間かけて掃除し続け、捨てたゴミ袋は全部で10袋にも及んだ。私は看護師だった頃にメンタルと一緒に腰も悪くしていて、終わる頃にはすっかり疲労困憊していた。腰は痛いし足はガクガクするし、数ヶ月寝たきりだった体には既に筋肉痛の兆しが見え始めていた。それでも私はきれいになった部屋を見て大変満足した。寝室側のエアコンは壊れていて、こんなに部屋が荒れ果てた状態だと業者も呼べないし、リビング側のエアコン壊れたらどうしようね、なんて夫と話していた部屋も、今なら人を入れられる。ビリビリに破れたまま放置されて既にその存在価値を失っていた敷き布団のシーツを新しいものと交換して、私はすぐにその上に倒れ込んだ。仕事から帰ってきた夫は、部屋を見るなり、「えっ!?きれい!すごい!」と目を丸くして叫んだ。驚く夫を、布団から立ち上がれないまま私はドヤ顔で迎えた。
 次の日にはキッチン側の掃除もするつもりだったが、私は結局筋肉痛で丸一日寝込んだ。

 ところで私は自他共に認めるデブである。悲しいかな、BMIという国際的な指標が私を肥満体型だと断じている。看護師として働いていた頃は常に忙しく駆けずり回っていたのもあり、私はうつ病を発症するまでどちらかというと痩せ型であった。それがいきなり薬の副作用で20kgも太ったのである。急激に太りすぎたせいで、腹部や太ももには俗に妊娠線と呼ばれるひび割れのような赤い線がいくつもできた。周囲にはデブと笑われ、電車では妊婦と間違われて席を譲られそうになる。恥ずかしくて死にそうだった。そして、ドナーの基準には色々あり、BMI値もその一つである。移植外来の看護師さんはとても優しかったが、体型に関しては「絶対に!これ以上!太らないで下さいね!」と釘を刺された。つまり私のBMI値はドナー適合者のギリギリのラインなのである。先日の記事で私は手術までに痩せると書いたが、あまりに楽観的すぎた。私の趣味はスキューバダイビングで、泳ぐのが好きなので、20kg太った時も慌てて近所のジムに泳ぎに行った。少なくともその時は2時間ぶっ続けで泳ぎ続ける程の体力があったのに、今のこの体たらくはどうだ。ちょっと掃除した次の日に筋肉痛で寝込んでいては、とても痩せるなんてできっこない。
 ルームランナーを買おう。
 そう思い立った。私が住んでいるのは賃貸マンションだが、角部屋で、下階はほとんど使われていない事業所の事務所だから、多少音が響いても大丈夫だ。ランニングなんていきなりできるわけもないし、やってもせいぜいウォーキング程度。ジムは人がたくさんいて怖いし、プールの方は高齢者の憩いの場になっていてほとんど泳げない上に、時々話しかけられてやっぱり怖い。ひどい筋肉痛で布団から出られない私は、スマホで色々検索した。自走式と電動式があり、介護用具の福祉用具センターのように試して購入できる専門店もあれば、レンタルショップもある。お値段もピンキリで、1万円から130万円なんて目玉が飛び出るようなお値段のものもあった。色々調べながらポストしていると、フォロワーさんがありがたい情報を教えてくれる。私はヨガマットを買ってヨガをしています、とか、いきなり激しい運動は続きません、とか、おやつに煎り大豆と豆乳オススメです!とか。確かに、焦りすぎたかもしれない。とにかく運動しなければ!と焦って買った、数年前流行ったエクササイズゲームも、設定やら起動が面倒で結局やめてしまった。買っても続かなければ意味がないのだ。

 さて、その次の日。つまり昨日である。
 まだ筋肉痛は引いていなかったが、通院日だったので何とか外出した。一人で外出するのが怖くて困難なことと、病院が遠いことから、最近は夫の車に乗せて行ってもらっている。病院が遠いのは、私が仕事をやめて収入が減ったときに家賃の安いところに引っ越したからだ。
 前回移植の話をして移植外来の先生からの意見書を渡したので、きっと今日は私の主治医から、移植外来の先生宛の意見書が貰えるはず。そう思って行ったが、結論から言うと貰えなかった。
「私も色々調べましたが、移植の後にうつ状態になってしまう患者さんがいるみたいで、あちらの先生はきっとそれを心配されているのでしょう。私個人は移植には賛成ですが、何の根拠も無いのに軽々しく良いとは言えません。そこで今日心理検査をして、その結果を根拠として持っていき、あちらの先生を説得してみましょう」
 覚えている限りで、こんなことを言われた。ちゃんと私のために調べて考えてくれたのが嬉しかった。長時間電車に乗るのが怖くて何度か近くの病院を探したこともあるけれど、結局今でも病院を変えずに通っているのは私の主治医がとても良い先生だからだ。うつ病になって看護師としての仕事が突然できなくなり、かつて泣きながらこの病院を予約したのは、近くの口コミが良い病院の中で一番予約を取れる日が近かったからだけれど、良い主治医に恵まれて心から良かったと思う。

 心理検査にそこそこ時間がかかったのと、フォロワーさんにオススメされた煎り大豆と豆乳含む買い物もしてきたので、病院から家に帰りつくまでに大分時間がかかった。
 家に帰って一息ついて……そこで突然、大きな落ち込みがやってきた。
 正直に言うと、実は最近少し調子がいいなと思っていた。
 一年半ぶりに掃除もでき、痩せたい!という意欲もあり、落ちるときは落ちるけれど希死念慮はなく、睡眠か頓服で何とかなる。もしかしてこのまま仕事に復帰できちゃったりするかも!とか、仕事に復帰できたら少しでも夫の負担を減らして家計を助けてあげられるかも!とか思っていた。
 けれどやっぱり体はついていかずに、久しぶりの外出で心身共にボロボロになってしまった。
 調子が良かったのは最近ずっと引きこもっていたからで、外的刺激が少しでも加わるとすぐに気持ちがぐらついてしまう。
 頓服薬を飲みながらぽつりぽつりそんなことを夫に話すと、夫は「妻ちゃん。妻ちゃんの今一番大切なことは何?」と私の頭を撫でながら私に聞いた。
「妻ちゃんの今一番大切なことは、自分の体を大事にすることでしょ?妻ちゃんが嫌になったら別にいいよ。俺は透析の覚悟はとっくにできてるよ。でも、少しでも俺を助けてくれる気がまだあって、ドナーになってくれるなら、仕事のことなんか考えちゃだめ。今はまだゆっくり休んでね」
 これから先、何度こういうことがあるんだろう。きっと何度もぐらつくし、落ち込むし、弱音も吐くだろう。でもやっぱり、この優しい人に腎臓をあげたい。夫に慰められながら、私はまた腎移植への決意を新たにした。

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