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やかんが重い。

祖父が死んだ。 
8月の上旬。
何故死んだかというと、人は最終的には死ぬから。
そんな当たり前のことが、分かりきってることが、結構ショックだったんだな、私はきっと。
大往生だからって悲しくないわけではないんだなって。思い知った。
大往生で死んだら悲しくないだろうという謎の思い込みがあった。
お葬式の時はきっと泣かない自信があったし。
けど、実際は違った。
通夜と告別式が終わった後も、
夜になると目から流れに流れて、流れ続けて朝になると目が開かない。そんな日が一週間続いた。
体が重い、体が痛い。目の焦点が合わないし瞼が重すぎて目が開かない。息ができないくらい空気がうすくなって。
誰とも話したくないし、静かな所に一人でいたい。仕事は行くけど、とにかく必要な時以外は誰とも話したくなかった。
死後の世界をひたすら思ってみたり。
そして、死を身近に感じていたくてホラー映画を見たい衝動に駆られる。死が怖くないモードになって見るホラー映画はびっくりするほど怖くなくて。死に対するハードルが物凄く下がるというか、人が潜在的に持っている死への恐怖感が薄くなっているというか。そんな時に見るホラー映画は怖くないんだなって。それがかなり意外な発見ではあった。
それから、深淵としたどろどろしたものの底から出てくる美しさみたいなモノへの感性が研ぎ澄まされるというか。
伝わりづらいかもだけど、松井冬子さんの作品、美しいな、怖いと美しいが一緒にあって、本当に美しいなってなる感じというか。そういうのが美しく感じるモードになったというか。普段と違う美的センスのスイッチが入る感じ。
そんなモードのなか、おじいちゃんの花に埋もれた死顔が脳裏に張り付いて離れないとか本間に夢にも思わんかったな。
それから、一週間して、天地がひっくり返るほどの激しい腹痛に見舞われる。
Tシャツが絞れそうなくらいと、水溜りが出来るほどな発汗。
三日三晩とはよくいうけれど、口でいうより遥かに壮絶に時が過ぎた。辛い、ただただ辛い時。痛すぎて眠れない時。もちろん病院には行って点滴やら採血やらをして薬も貰い、寝る以外何も出来なかった状態からやっと起き上がれるようになった。
(聞くところによると虚血性腸炎というのらしく、ウィルスなどではなく、ストレスや生活習慣などが原因なのだとか。知らんけど。わたしは勝手に祖父の死の精神的ショックだと思う事にしたが。思いのほか長引いた。)
そして、ようやく起きてコップにお茶を入れようとやかんを持った時の事。やかんが重い。重すぎる。普段ならひょいと持ち上がるはずのやかんが、、、
やかんってこんなに重かったんだ。
世の中では8月が夏休みやレジャーだなんだと、色々な体験をしたり、旅行で色んな経験をしてる人たちがいる最中に、
私が発見したのは、やかんが重いという事。
謎の体調不良に見舞われて以来、
夜に涙が出なくなり、
祖父がいつまでも泣いてんじゃない!と言いに来たんだと思うことにした。

正直、わたしは、おばあちゃん子だったし、おばあちゃんが死んだ時は心の底から寂しくて、おばあちゃんありがとうってなったのに、おじいちゃんの事はちっとも好きじゃなかったの。(母とすぐケンカするしさ。)だからこんなに感情揺さぶられるなんて。けど、存在自体がなくなって骨になって初めて気づいたかも。普段気づかなくても存在っていうのは重いんだな。
ということに。




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