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映画『君たちはどう生きるか』とジブリ映画の狂気

インフルエンザにかかっていた。非常につらかった。いつぶりだろう、社会人になってからは初だし、大学時代もあまり記憶にないのでもしかしたら最後にかかったのは高校生の頃か…。高校時代、懐かしい。文化祭の準備が特に好きだった。ああいう、みんなで喋りながら工作する時間はもう戻ってこないのだろう。幸福な時間だった。ダンボールとガムテープとペンキの匂いがまざって甘やかに香る教室で、日が暮れるのにも気づかず作業していた。

病の床に伏していた時間、米津玄師の「地球儀」をなぜか聴きたくなり、ずっと聴いていた。今は映画『君たちはどう生きるか』の映像がついた版のMVもあった。私はジブリ作品が昔から大好きで、『千と千尋の神隠し』のセリフは小学生のころ暗誦できた。湯婆婆のモノマネをよく学校でして人気者になれた(一瞬)。『風立ちぬ』も『思い出のマーニー』も高校時代の友達と見に行ったのを思い出した。『風立ちぬ』本当に好きなんです。美しいものだけを追いかけて、追い求めて、生きてきた人間の行き着いた先。描かれているのは堀越二郎であり堀辰雄であり、宮崎駿その人でもある。

僕は美しい飛行機をつくりたい。

彼は自分の追い求めていた境地に達し、気がつく。我に返る。そこに残るは「一機も戻って」こなかった零戦の設計図と、失った大切な恋う人の影。宮崎駿はここまで映画を作り続け、ふと我に返り、何を思ったのだろう。

さて高校時代のことを思い出す時間を与えてくれたインフルエンザだったのだが、高校時代の自分や高校生の友人にはもう会うことはできない。当たり前のこと。
しかし映画『君たちはどう生きるか』はそれが可能であるという世界の捉え方をしている。観た方は全員お分かりの通り、子供時代の母親とパンを食べられる。私は、この世界の捉え方を大切にしたいと思った。
例えば高校時代に文化祭の準備をしていた自分、部活の大会が密かに嫌で憂鬱だった自分、大学時代、寮を出て一人暮らしをしたくてアルバイトに明け暮れていた自分、卒論を書くためにあたたかな大学図書館で雪景色を見ながらPC(今この瞬間使っているものと同じだ)に向かっている自分、あるいは、歌いながら新川通を一緒に歩いた友人、トマムでキロロで僕にスノボを教えてくれた友人、彼らは、当時の彼らは、今もいるという世界の捉え方。つまり、時間を場所のように捉えると言い換えることもできるだろうか。簡単には行けないけれど、でも今もいる。それこそ、青鷺に導かれるようにして塔の中へ足を踏み入れれば、そこに行けるかもしれない。

そうして世界を捉えた時、過去の自分はよい友人である。あのころそれを選んでくれたおかげでいまのこれがある。その頑張りは報われないかもしれないけれど、何年後かに思わぬところで役に立つ。そう伝えてあげたくもなる。
そして、今の自分は、未来の自分の友人になりうるのだ。僕は未来の自分にとって良き友人であるために、生きなければと思う。今の自分は、未来の自分が愛おしく思い出せるような存在だろうか? そこが自分にとっては大切なことじゃないかという気がしている。

『君たちはどう生きるか』はジブリとしてはかなりその魅力と言われる要素が少ない。ごはんが美味しそうとか、絵が綺麗とか、冒険してワクワクするとかそういう感じの映画ではないのだ。いつもごはんがみずみずしく美味しそうに思えるわけじゃない。食事が喉を通らない日もある。自然も建物も、美しいばかりではない。自然は人間に対して牙をむくこともあるし、建物は壊れるのだ。当然人生はワクワクすることばかりではない。つらく傷つくことの連続である。宮崎映画はそれをずっと隠し、そのうえで「子供たちに生まれてきてよかったと思ってほしい。アニメーションは子供のためのものだ」と発言してきた。

今、ジブリ映画を見て育った人々の中にも現実を生きるのがつらい人はたくさんいる。ジブリの狂気ともいえるほどの世界の美しさにはめまいがしそうにもなる。現実の世界を美しいと思うには映画世界とあまりにもかけ離れている。そして現実を見ることを忘れ、美しいものしか見えなくなった人間がどんなところに行き着くか、それは『風立ちぬ』ですでに描いたのだ。
だから彼は、今作で美しいばかりではない世界を描いたのだと解釈したい。そして、この色彩に乏しい、飯の不味い、気の合わぬ人ばかりの世界で、それでも私たちはどう生きるか、考えよということなのだろうと思う。

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