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3:せん妄

レビー小体型認知症の特徴的な症状は、幻視、妄想である。
その症状は、特に夜ひどくなるのでこれを夜間せん妄と言う。レビー小体型認知症の介護者がみな苦悩するのは、この夜間せん妄だろう。この症状を目の当たりにすれば、みな精神病院に連れて行きたくなるはずだ。
 春川病院に通い始めて、ほぼ1年経過しても、幻視と妄想は止むことはなかった。そして、大吉の背中は曲がり始め、手が震え、歩き方は小刻みになっていった。この状態は、どの本にも書かれているパーキンソン病発症の典型的な症状ではないか。
 映子は、このまま薬を飲み続けて大丈夫だろうかと疑問に思い始めた。病院に相談したところで、レビー小体に関する対応が全く分からない医師は、ますます薬を増やすだけだろう。一生飲む薬として処方されているのだ。無駄な薬を飲むことは臓器を疲労させ、毒を溜め込むことになるだろうと思った映子は、病院を変えようと考えていた。しかしどこへ?とにかくアリセプトだけでも薬をやめてみよう。
 アリセプトを飲まなくなると、手の震えは無くなってきた。動きもいくらか回復しているような気がした。
 アリセプトを止めて一週間後の夜中、大吉はトイレに行きたくなり起きたが、場所がわからなくなり、1階のトイレまでいってようやく用を足したと言う。大吉の寝室の横にトイレはあるのだ。それがわからないということはどういうことなのだろうか。
朝食でその話を聞いた映子は、今までと違う反応に、やはり薬は必要だったのかと思い、アリセプトの錠剤を半分に砕いたものを飲ませてみた。
昼食の後、大吉はめまいがすると言い出した。立っていられないほどで吐き気がするという。2階のベッドまでは行かれそうもないので、1階の部屋のカウチに寝かせる。起きられないまま、夕食もとれず夜まで寝ていた。やめていたアリセプトを少量でも飲ませた結果なのだろうか?映子は、薬は怖いと改めて思う。
 大吉は、若い頃からメニエールがあり、時々疲れが出るとめまいがするといって、横になることがあった。めまいは吐き気を伴う。40代から50代にかけてメニエール症状は出なくなっていた。その代わり出現したのが、夜中の大声である。寝静まった夜中に、突然大声で叫びだす。「このやろう」と聞こえるときもあるし、「わー!」というただの大声のときもある。そして喧嘩しているのであろうか、手足を激しくばたつかせる。隣に寝ている映子は、睡眠中に突然、顔面を殴られる。あるいは、腹を蹴られることもある。ぐっすり寝ているときの突然の攻撃は、かなりのショックだ。悪夢でも見たのかと、起こすのだが、大吉はしっかり寝ていて、起きないのである。悪夢を見てあれだけ暴れれば、普通は自分の声で目が覚めるものだ。朝食のテーブルで
「昨夜はすごい悪夢を見ていたみたいね」
「いや、夢なんか見ていないよ」
「あんな大声で叫んで、腕も足もバタバタ動かしていたのに、覚えていないの?」
「え、暴れていた?」
「手があたって痛かったわ」
「そんな覚えはないなあ」
なにか変だ。しかし、その頃の映子には認知症の知識も脳の疾患の知識もなかった。これはレム睡眠障害という症状だったのだ。数回、殴られたあと、映子は大吉と別々の部屋に寝ることにした。これ以上、睡眠を邪魔されたら、具合が悪くなりそうだった。この頃、大吉の男性機能も働かなくなっていたので、別々の部屋に寝るのは時間も気にせず自由にできて、清々しくさえあった。
大吉は、なかなか寝ないのである。大抵は、何をするでもなく夜中の2時すぎまで起きている。本を読んでいるようではあるが、読み終わるために読んでいるわけではなさそうだった。朝は、7時頃起きる。キャンプ場の仕事は、7時に起きてギリギリ。朝早い利用者は、6時に起こしに来ることもある。つまり、平均睡眠時間は4~5時間というところ。映子は、最低でも7時間は寝たい。若い頃は、8時間寝なければ持たなかった。子育て中は、なかなか睡眠時間がとれなかったので、昼寝を週に1日か2日、3時間位取ることで疲労を回復させていた。睡眠のリズムがこれほど違うと、別々の部屋のほうが合理的なのだった。レム睡眠障害が図らずもお役に立ってしまったというところか。いや、レム睡眠障害などないほうが良いのだけれど。

大吉は起きてこないので、先に風呂を使い、出て時計を見ると23時過ぎだった。そろそろ一度起こして、なにか食べるか聞いてみよう。昼夜と2食も抜いたらなにか悪いことが起きそうな気がした。
すると大吉が起きる気配がした。映子は、起きてきた大吉に声をかけようとしてハッとした。大吉の目は、光を失い淀んでいた。知っている顔の造作はしているが、明らかに異質な雰囲気を漂わせている。
「お前は誰だ。どうやって人の家に入った」
大吉は、その死んだような目をこちらに向けて、近寄ってくる。背筋がゾッとした。ここにいるのは、長年一緒に住んでいる夫ではない。夫の形をした別な何者か、全くの他人。私を異端者として排除しようとしている。
世界は暗闇に包まれて、寝静まっている。この家は、突然密室と化した。この空間にいるのは、お互いに全くしらない男と女だった。映子は恐ろしさで腰が抜けそうだった。
「あなたの妻がわからないの?ここは私の家でもあるのよ」
「お前は映子ではない。嘘を言うな」
大吉は詰め寄ってくる。映子はジリジリ後ずさりをして、二人はテーブルの周りをぐるぐる回った。絶対に捕まってはいけない。大吉は、老いたとは言え映子より遥かに腕力があるのだ。映子は、必死に考えていた。もし、大吉が襲ってくるようなことになったら、鍵のかかる部屋はどこだろう。トイレに籠ろうか。それとも外へ逃げて、隣の家に助けを求めようか。警察に電話する暇はあるだろうか。
「なぜ人の家に入ったか説明しろ」
「私とあなたの家なのよ」
「泥棒か」
「泥棒じゃないわ。よく見て私よ」
「ウソを付くのがうまいな」
「嘘じゃない、ここが私の家、私とあなたの家なのよ」
「実に巧妙だな。本当のように見せかけるのが」
話しているうちに、大吉のスピードが緩んできた。なんとなく自分でもわけがわからなくなってきているようだった。
脳は、たくさん栄養を必要とする。特に甘いものは脳の回復に即効性がある。映子は、冷蔵庫に杏仁豆腐のパックがあったのを思い出した。もともと、お腹が空くと機嫌が悪くなる男だった。昼も夜も食事をとっていないとなれば、脳の中は、スカスカになっているのかもしれない。
「美味しい杏仁豆腐があるのよ。食べましょう」
映子は唐突に言い放って、台所に行くと、大急ぎで、杏仁豆腐のパッケージを皿に開けた。手が震えたが、こぼれないように盛り付け、大吉の目の前に持っていった。
「美味しいから食べましょう。お腹が空いているんじゃないの?」と差し出した。
大吉は、黙って杏仁豆腐を食べ始めた。
「座って食べましょう」
大吉は、言われるままに座ると、そのまま食べ続けた。
「美味しいでしょう。お腹が空いているなら、もう少しなにか作りますよ。すこし待っていてね。」
残っていた白飯と、海苔と鮭のほぐしたのを乗っけて、醤油少々とわさび、熱いお湯をかけたお椀を出す。
「お腹がすいていたのね」
「これは美味しいね。映子が作るご飯は美味しいよ」
やっと、大吉が戻ってきた。良かった。映子は、向かい側の椅子にヘナヘナと腰を下ろした。恐ろしい夜は、これで回避できたのだろう。多分。心の奥にまださっきの恐怖は居座っている。いつまた、大吉が正気を失うか分からない。認知症は治らないのだから。映子は、自分がもう一度こんな場面に耐えられるだろうかと自問していた。
これが、最初の夜間せん妄だった。その後、繰り返されることになる恐怖の始まりだった。

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