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8:夜は妄想の花が開く悪夢の時間

「幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス著は、帯にあるように「幻覚百科とでも評したくなる本」で、様々な要因で、人は様々な幻覚を見るという、その臨床の集大成だった。
認知症に限らず、脳に何らかの病変や損傷があることで、人は、いともたやすく現実から離れてしまうのだ。こんな一節がある。「パーキンソン病、脳炎後遺症のパーキンソン症候群、そしてレビー小体病では、脳幹と関連組織に損傷がある。ただしその損傷は脳卒中の場合のように突然ではなく、だんだんに生じる。」
そういうこともあるのかと映子は思った。何十年も前から、何らかの原因で、あるいは生まれ持った性格特性のせいで、脳の組織に損傷があって、それが徐々に病変となって幻覚や妄想を生むようになったということだ。
本の中には、大吉と同じ幻覚を見ていた症例もあった。「複製妄想」という。
その老人は、昼間は、自分の入っている老人ホームを認識しているのだが、毎晩「ホームの巧妙な複製」に自分が移されているように感じたそうだ。
大吉も、自分の家を、全くそっくりに精巧に作られた複製だと言う。だから、本当の家に帰りたいと言うのだ。そう言い張るのは、たいてい夜中だ。懐中電灯を握りしめ、
「ついてくればわかる。入口があるんだ」
と言って、映子の手首を掴み外へ引っ張っていく。二人は真っ暗な家の周りをぐるっと一周する。家とそっくりな別の建物の入り口など無いのだけれど、暗くなると周りが見えなくなるので、妄想の世界を投影しやすくなるのだろう。大抵、夕方から夜は、妄想と幻視の一番活発な時間帯だった。
そして、大吉は、どんな陰謀によってこのような精巧な2件の同じ家を作ったのか、自分を陥れようとする奴らがいると言い続けるのだ。

あるいは、すでにこの世から消滅してしまった自分の職場であったキャンプ場が、ある場所に移築されているという妄想も語っている。その場所は、羽田であったり、厚木であったり、定まっては居ないのだが、1箇所ではなく複数箇所にあると言い出す日もあった。それを、電話がかかってきた知り合いに話していたから、案の定、その人からの電話はこなくなった。

 そんな複製妄想にとらわれていたので、夜中、自分のバッグを下げて本当の家に向かったらしい。というのは、流石に夜中のことで、映子が寝ていたときの出来事だったからだ。
バッグは行方不明になった。
家の中は、数回探したが出てこない。屋外に放置してきたのだと思うしか無かった。バッグの中には、ケータイ電話、免許返納した身分証明書、お財布に3000円くらいの現金が入っていた。何より困ったのは、ケータイ電話に、知り合いの情報すべてが入っていたのだ。電話番号など手帳に書き写したものは恐ろしく古いものしか無かった。大吉は、手帳も日記もつけない。以前から、手帳にメモするように言っていたのだが、皆目やる気はなかった。3ヶ月待ったが、どこからも出てくる気配はない。森の中にでも置いて来たのなら、通りがかりの人が見つけてくれるかもしれない。しかし、財布にお金が入っているとなると、出て来ない可能性も高い。
知り合いからの電話が無くなったのが、やはり寂しいようだったので
「電話なくしたこと、こちらからお伝えしないと,連絡の取りようがないわよ」
「電話番号は、ケータイの中だ」
「本当に連絡先のメモはないの?」
「無い」
映子は、もし葬式となった時、誰にも連絡できないのでは困ると思い、年賀状を探った。大吉は、自分のものにさわるなと言って怒るので、デイサービスに出かけた時間を見計らって、引き出しを順番に探していった。
そこで大吉が姉に宛てた手紙を見つけた。
その手紙は、30万円の借用書だった。映子が、お金を渡さなかった3ヶ月、おとなしくしていたのは、姉からお金を借りて会社に払ったからだったのだ。そして、姉から返済を迫られたので、映子にしつこく金を出すように言い始めたのだ。大吉の姉は、30万は何に使うと聞いたのだろう。大吉は、妻が、お金を出してくれないので、苦境に陥っていると説明したのだろうか?それとも自分が会計をうまくまとめることができなくて損失を出したと言ったのだろうか?
手紙の文字は、歪んで、震えていた。以前の大吉の筆跡の勢いは無かった。

年賀状に、電話番号があるものは、最近少ない。よく電話してきた人の名前を探したが、そういう人は逆に、年賀状を出さない。そういう人は、メールや年賀電話ですませる。
映子が知っていて、年賀電話をしてくる人と繋がる人を一人だけ見つけた。以前、1度だけ大吉とその人と、年賀電話の人と4人でランチをしたことがあったのだ。電話をしてみると、映子のことを覚えていてくれた。そして、首尾よく、年賀電話の人の電話番号を教えてもらうことができた。
大吉に、年賀電話の人の電話番号がわかったことを伝え、こちらから掛けてみたらと水を向ける。何故か、自分からは電話をかけないのだ。仕方ないので、瑛子がかけた。
「近いうちに、遊びに来るって」
「そうか、元気にしているんだな」
なんとなく嬉しそうだった。
もし、キャンプ場に居た頃のように頻繁に知り合いが訊ねて来ていたら、認知症はこんな形で進行しなかったのだろうか?
いやいや、キャンプ場でもすでに、無くしものは多かったし、出かけるときは、何度も何度も確かめるので、ものすごく時間が掛かっていた。すでに症状は進行していたのだ。大吉の認知症は30年以上も前から準備されていたのだ。

2年後、大吉が入院し、これからはけっして使われないだろう様々な倉庫の物品を整理した。足の踏み場もないほどの無用な物品たち。キャンプ場では必要とされたろう厚いシートやアックス、電動工具(古いものばかりだ)、同じようなものの入っている金属の箱、使途不明の金具類などなど。
すべて外へ出し、奥の方の棚にあったタッパーの蓋を開けると、そこには、古い電動工具と、件の紛失したバッグが入っていた。中身もちゃんと揃っていた。
田舎の、特に家の周り一体は、街灯などないので、満月でもない限り真っ暗だ。その真っ暗闇の中で、この物置が本当の家だと思ったのだろうか。
しかし、足の踏み場もない状態で、こんな奥にどうやって入ったのだろう?せん妄の最中には超能力も使えるようになるのだろうか。
あれだけ探しても、見つからないはずだ。こんなところにあるなんて、誰が想像できるだろう。

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