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6:レビー小体ではない認知症の母は、怒りの電話をかけ続ける

映子の母は、夫が亡くなったあと、常に怒っていた。いつも同じ理由で。怒っていないときは、寂しい寂しいと言い続けていた。
映子が、大吉の幻視や妄想で疲弊しているときに、母の電話は掛かってくる。内容はいつも同じだ。私は一人、寂しい寂しい寂しい・・・・。
「私はいつも一人にされる。どうしてこんな目に合うの。お父さんも誰もいない。寂しくて寂しくて寂しくて、、、」
映子には答えようがない。どう慰めたところで、母の気持は変化しないからだ。父はすでに亡くなっているが、認知症の母は、父の亡くなるときも葬儀も四十九日もちゃんとその場に居たのに、全て忘れている。だから、父に置き去りにされたと思う。そのことを理解してもらおうと、お墓の前で母と弟と映子が写っている写真を見せて、もうお墓に入っているのだと説明しても、母は、納得しない。そこで、私ボケちゃったのかしら、というセリフは出てこなかった。どうしてみんなで私を困らせるのか、騙そうとしているのか、と怒りだすのだ。

父は、母の6歳上で5人兄弟の末っ子だった。頭がよく、映子から見ればおばあちゃんに当たるひとは、かわいがっていたそうだ。

父は、10代のとき、特攻隊にいたらしい。次々と同期の少年たちが飛行機で帰らぬ戦場に飛んでいった。いつかは自分の番になる。それは、死とともにあった少年時代の、ある種絶対的な美しい思い出となって父の中にあったようだ。父が出撃する前に戦争が終わった。そこからの人生はおまけのようなものだったのだろうか。どうも、その能力を正しく人生の発展にかけたとは思えない生活を選んでいったように思えてならない。

母の兄という人は船のりだったようで、その知人として父と母はお見合いをして結婚した。母は、9人兄妹の末の方で、姉兄との年の差は、20もあったから、老いた親に代わって家の仕事ばかりさせられていたようで、とにかく家を出たいという思いから、すぐにこの結婚を決めたのだった。しかし、父は、船に乗る選択をする。通信使としてタンカーに乗り、半年は海の上だ。せっかく結婚して家を出ても、夫はほとんど家に居ないというなんとも寂しい新婚生活である。しかも、実家から遠い神奈川県に引っ越して、母は知り合いなど誰もいない。そのような状況のなか、長女の映子が生まれる。その頃は、病院もゆるゆるしていたのか、一度流産しそうになってからは、生まれるまで数ヶ月病院で暮らしたという。夫が、何ヶ月も留守なので医者が心配したのかもしれない。今のようにケータイ電話もないし、何かあってからの連絡は、電話までたどり着くのも難しい。そんなだから、映子は、母親を支える役割を持たされていた。子供時代も、常にしっかりしたいい子で居なければならなかった。父は、日本に返ってくると3ヶ月ほど家にいるのだが、最初の頃は、パチンコに通っていた。そのうち、競輪にハマった。そして、映子の雛人形のためのお金も、競輪ですってなくした。他にも、いろんなことがあったのだろうが、映子は知らない。というか知らされていない。とにかく自分のやりたいようやる、結構無計画なくせのある性格で、周りは振り回されたものだ。晩年、船から降りてからは、マラソンにハマり、走っていないときは、競輪という生活で人生をエンジョイしていたようだった。

母は、その間、父に言われるまま、家のことだけしていた。どこかへ行きたくても、父は自分の行きたいところへ、一人で出かける。母は、連れて行ってもらえない。父は、家に人が居ないと、誰かが忍び込むから、家に居なくてはいけないと常に言い続けていた。何か、ちょっとした人間不信を抱えていたようである。母は、自分は家に居て、大事な話は、父親がするから、自分はどうでもいいのだと自己肯定感がどんどん低くなっていき、その恨みつらみを口に出さないまま、長い間過ごした。そこで、我慢に我慢していた感情は、どんどん頑なで頑固な態度に変わり、父の死で、完全に崩壊した。

怒りは、結婚しない弟 智士にも向けられた。発作のように怒り狂う。

「あなたが結婚さえしていたら、孫も生まれて、こんな寂しい思いをしなくてすんだのに」

何百回その言葉を聞いたろうか。なだめてもすかしても、怒っているときは、火に油を注ぐようなもの。ある程度時間がすぎるのを待って、なにか美味しいものとかで話題を変える。
「私もお迎えがくると思うだけれど。大丈夫元気ですよ。身体は元気です。でも寂しい、寂しい、寂しい、」
日によってはこの電話が、夜十一時過ぎや夜明け前に掛かってくる。一日に二十回数回掛かってきたこともあった。耳元で、何度も何度も寂しいと言う言葉を聞くことは、呪いのようで、映子は、寒気がするのだ。そんな電話がもう六年も続いている。智士が一緒に住んでいるけれど、仕事で留守になると寂しい呪いが爆発するんだろう。要介護3になっても、電話を掛ける元気だけは衰えないのは本当にまいる。そうでなくても、夫の介護で、映子の神経はすり減っているのだ。


母と夫を見ていて、認知症になる人の共通点が見えたような気がした。認知症になってから表面に出ている人格、行動などは、誰にも見せまいと理性で抑えていた本音の部分だということだ。
母の怒りは、父が生きていた時に言えなかったこと、自分が本心でやりたかった事ができなかったこと、あるいは父に止められたこと、自分が蔑ろにされ、家事に縛り付けられていたこと、そして、智士が結婚しなかったことへの恨み、全てが吹き出した結果だった。この怒りの噴出は、6年経って少し衰えたようにも思えるが、凄まじい勢いだった。
怒りの対極に寂しさがあった。この2つの感情は、双子の兄弟のようなものだったのだ。

怒りを吐き出しきって、脳の老化が進めば、そういった記憶も薄らいでいくのだろう。かなり昔に亡くなった自分の母親が一緒に住む家へ帰りたいと言うときもある。新しい記憶から失っていくのだから、いまは、子供の時母親と住んでいた家の記憶まで逆上っているのかもしれない。
 反面教師として、母の姿が語っていることは、自分が思っていることを伝えること、やりたいと思っていることをさっさと実行すること。限りある人生の時間は、思っているほど長くないのだ。たとえ行動したことが失敗しても、成功しても関係ない。自分の中で、やりきったと思える人生を生きることが重要なのだ。

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