”女性”への敬意

 先日とあるテレビ番組を見ていて、自分の視野の狭さを思い知ったことがあった。

 そのテレビ番組では、「歌手としても役者としても成功していると思う人物ランキング」というものを紹介していた。1位の福山雅治さんをはじめ、トップ5に名前があった人は全員男性だった。その中で空欄になっていた2位を当てるという企画だったため、私もテレビの前で一緒に考えた。

 「んー」となかなか思いつかなかった私を差し置いて、テレビに出ているタレントさん達は次々に名前を出していく。そして、ベテランのタレントさんがその空欄に当てはまる2位を的中させたのだ。

 その2位は、上白石萌音さんだった。

 私は大きな勘違いをしていた。ランキングで出ていた人が全員男性だったこともあり、2位もてっきり男性だと思い込んでいたのだ。また、潜在意識の中で、「役者は男性の仕事」という性差別的な考えが起こっていたのかもしれない。

 そういえば、最近のテレビやネット記事などでは、女性の役者のことも「俳優」と表記しているものを多く目にする。「看護婦」が「看護師」になったり、「police man」が「police officer」になったりしたことと同様の変化だと思う。これらは「ジェンダーニュートラル」という考え方だと、インターネットで調べながら知った。

 そのジェンダーニュートラルを紹介するページには、このような文章が載っていた。

冒頭の例に出した「警察官」は、英語の「ポリス オフィサー」同様に性別のない表現ですが、そもそも、日本では警察官は男性しかつけない官職でしたから、警察官すなわち男性警察官だったわけです。つまり、「警察官」は「ポリスマン」そのものでした。第二次世界大戦後に女性が警察官として採用されてからは、「婦人警官」という名称が長らく使われていましたが、1999年施行の改正男女雇用機会均等法によって「女性警察官」に変更されました。(引用元 https://serai.jp/living/354777)

 昔は「警察官は男性の職業」という固定概念があったから、区別するために「婦人警官」「女性警察官」という呼び方になったという。現代にもそういうことがある。たとえば、「女子サッカー」や「女子野球」なども、頭に「女子」を付けて区別している。「サッカー」や「野球」では、知らず知らずのうちに「男子がやっている」と想像してしまうからだろう。

 私は自分がやることが、このようにわざわざ区別する対象になったことはないので、区別されることでどういう気持ちになるのか実感がない。現代は、「区別しないことが良い」とされているので、「女性警察官」とも呼ばないし、「俳優」という言葉は広い性別を指す言葉になった。そうすることで、多様な性別にも配慮しているというスタンスを示すことができるようになった。

 そういう配慮はとても良いことだと思うし、これからも全員が気持ちよく生きられる世の中になってほしいと思う。ただ、「女性」「女子」という言葉で区別することは、マイナスなことばかりだったのだろうか。実は私は、そういう区別を「悪いもの100%」と捉えることに疑問をもつ。かつてのそういう区別には、一種の「敬意」が含まれていたのではないだろうかと思うのだ。

 先ほどの引用文の中にもあったように、かつて警察官は男性しか就くことができなかった。戦後に女性も就ける職業になったが、女性の就業率は低かったと予想する。昔は女子校だった現在の共学校に、依然として男子生徒が少ないことと同様に。でも、そのような女性不利の職業にも意欲的にチャレンジした女性がいた。少しずつ警察官として活躍する女性が増えてきたとき、逆境を跳ね返しながら頑張っている人に敬意を払い、世の中にもそういう人がいると発信するために、敢えて「”女性”警察官」と呼んだのだと思う。

 どうでもいいと思って軽んじているものに、わざわざ名前など付けない。名前を付けてその存在を認めようとする姿勢は、敬意があるからこそだ。戦時中は男性が優位に扱われていたが、戦後は男女平等ということが少しずつ根付いてきた。それまで軽んじられていた「女性」を見直すべきという風潮が、女性に対する敬意を帯び、「”女性”警察官」という言葉を生んだのだと思う。敢えて「女性」と付けることが「配慮」であるという時代が、間違いなく存在していたのだ。かつて「女性」とつけることは、軽視や蔑視ではなく、むしろ敬意であったと考えることができる。

 また近年では、男性にも同じようなことが起きていた。今はすでに死語になっているが、「イクメン」という言葉も「男性に対する敬意」の表れだった。それまで育児は女性がほとんどしていたが、育児に積極的な男性が増えてきた。そういう男性のことを好意的に思い、敬意を払って「イク”メン”」と呼ぶようになった。その後、「男性でも女性でも育児に関わるのは当たり前」ということになり、育児の世界でも男女平等が進行するようになった。

 そう考えると、これまでの日本では、「男性」や「女性」と敢えて付けることが、男女平等を推し進める契機になってきたのではないだろうか。そこには、今まで関わりが薄かったにもかかわらず、これから頑張って関わろうとしている人がいた。そういう人に対する敬意があった。そういう人が少しずつ増え、当たり前になっていった。そして、当たり前になることで、「男性」や「女性」と敢えて区別する必要がなくなっていく。

 今進められている男女平等に至るまでに、これまで多くの人が苦労してきたのだと思う。性別の壁に阻まれたり軽蔑されたりしたこともあったと思う。でも、そういう壁にぶつかっても諦めなかった人がいたからこそ、男女平等が進められていると思う。

  私ももし何かの壁にぶつかっても、その先には明るい未来が待っていると信じて、精一杯頑張っていきたい。

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