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天使の戯れ (修正版)

────愛って何かしらね。
程よく酔える甘い酒を飲み干しながら、女は首を傾げて男に問いかけた。
男は、脈絡を逸脱した疑問に怪訝そうな顔をして、ため息をつく。男の薄く色づいた赤い月のような目──女はいつも、そう表現した──は、常のように純粋さを放り投げていた。
女は、その目が存外好きであった。それはこの男が、女心など一つも分からないくせに、妙な具合に博識めいて見えるからであった。恐らくは男の特性なのであろう。出会った頃から死んだような目をしていたのを、女は憶えていた。
「その程度で酔っちゃったわけ? もう帰って寝たらどう」
自分も酒に強いわけでないのに、優越感を滲ませたような口調だった。
女はくすくすと笑った。酒に酔ったためではなく、穢れのない愉快のためであった。
男は、またため息をした。
「貴方、知ってる? 愛って何かしら。私はね、こう思うのよ。愛って、痼なの」
「痼?」
「そうよ。初めから無ければ気にならないわ。でも、一度その存在を知ってしまったら、どうしようもなく気が散って、嫌になるくらいそのことを考えるのよ。ほら、痼でしょ。あーあ、嫌だわ」
「アンタ、男に手酷い目に遭わされたか。それとも、親?」
テーブルに上体を預け、とぐろを巻くように男をじっと見つめる女に、苦笑が向けられる。それは、冷淡さと優しさをさっと焦がしたような色をしていた。
「どっちもよ。私、男が嫌いなの」
「それは哀しいね。俺、男なんだけど」
「あら、貴方は別だわ。私、貴方を男として見てないもの」
「殴りかかったら俺だけが悪人になるのが残念だな」
「ほらご覧なさい、女々しいのね」
女は、無邪気に笑みを浮かべると目を閉じた。
寝ちまったな、と男は思った。そうして、伸びた横髪を指に搦めて物思いに耽り酒を煽った。
見下ろせば、愛を信じぬ女は美しいものだった。
艶のある長い黒髪は甘い匂いを放ち、肌は雪のように白く、身体は細いが弱々しさは感じられない。
先程までは開いていた、キャラメルのような薄茶色の瞳も、男は密かに気に入っていた。
本人に伝えるつもりは毛頭ないが。
隣に寝る暢気な女を起こすか逡巡していると、硬い靴が床を蹴る音が耳につき、男は上げかけた手を思わず下ろした。
聞き覚えのある鈍い音は、いやに大きく響いて止まった。
「またここで飲んでたのね」
呆れたような声に視線を向けると、目を疑うような美しい女が立っていた。丁度、眠っている女の姉にも見える。
男に微笑みかける瞳は、状況を寸分違わず把握しているように感じさせた。
「息抜きってやつだよ」
男の言葉は、言い訳めいていた。女は、ゆるりと首を横に振って見せた。
「怒ってるわけじゃないわ。ガブリエルは少し不安定なところがあるから、こういうのも必要なのよ」
「そうかい。アンタも飲むか、ミカエルさん」
「なら、同じものをくださる? 藤堂さん」
「いいよ」
ミカエルは、ガブリエルの髪を優しく撫でると、藤堂のもう片方の隣席へ体を落ち着けた。
藤堂は、今の今まで自分が飲んでいたものと同じ酒を用意し、ミカエルへ手渡す。ミカエルは、ありがとうと言いながら受け取り、嫋やかにグラスへ口付けた。
藤堂は一時、その姿に見蕩れた。
「浮気な男ね。そのうち死ぬわよ」
ミカエルは、からかうように視線を流した。藤堂は肩を竦めて笑う。
元来、藤堂は女に目のない男であった。
自己評価の低さ故に積極的な恋への働きかけはしないが、浮気性で、好みとくればすぐに気に入るような性質をしていた。
藤堂自身、そんな自分の性質に蓋をすることが正しいと信じており、またそれを自身の子ども性だと説いていた。
つまるところ、大人になりきれない少年を胸の内に飼っているのだと。
けれどもミカエルもガブリエルも、藤堂の本質を本人よりも正しく理解していた。愛に飢えた、老いを憎む、少年を棄てたくない青年であると。
意識の外の孤独感が彼をそうさせるのよ、とはガブリエルの言葉だった。
何も言わず、ただグラスを空にすることに集中している藤堂は、子どもとは言い難い醜さがあった。そこに哀れなどなく、確実に年月を重ねた一人の寂しい男がいるだけであった。ミカエルは、この男に同情する気持ちなど持ち合わせてはいないことを改めて感じるばかりだった。
彼女もまた、同じようなものであったからだ。
人間、同族嫌悪というものを切り離して育つことは困難で、それは天使の名を使う彼女も例外ではなかった。結局のところ、ミカエルも孤独に喘ぐ寂しい女に外ならないのだ。
「いつか死ぬなら、僕はガブリエルに殺されたいよ。彼女、可愛いから」
長い沈黙を破り、甘い手つきでガブリエルの髪を撫で、藤堂は冷めたように言う。まるで、とっとと死にたいとでも願っているようだった。
ミカエルは、知らず唇を噛んだ。
この男は、カブリエルを愛しているに相違無いとわかる。けれどもそれは、一時のことであり、長く続かないことは明白だった。それが、藤堂という男の気質であるからだ。
以前には、ミカエルがその甘ったるい手つきの行く先だったこともある。
「できるかしらね、その子に」
「やらせるよ、きっとね」
ミカエルはゾッとした。
死を望む男の目が、末恐ろしく思えた。それを愛の形と思い込む心が、鬼のように醜悪に思えた。
「…………なんて。こんな可愛い子の手を汚させるなんて、俺って罪作りかな」
藤堂は笑いながらミカエルを見た。感情の色が抜けた赤い目は、些か不安感を生み出したが、ミカエルはそれを表に出すほど弱い女ではなかった。
「それでなくても、貴方は罪な男よ。死に値するくらいには、嫌な男よ」
「ふはっ、そこまで言われると逆に清々しいなぁ。僕、君にそんな酷いことしたかい?」
「黙りなさいな、浮気男」
ミカエルは、穏やかに笑って見せた。
丁度その時、また二人の若い娘が現れた。それは、やはりミカエルやガブリエルにそっくりな姿をしていた。揃うと、まるで四人姉妹のようであった。
騒がしく現れた二人は、三人の元へ駆け寄ると藤堂に向けて口々に話し始めた。
「あ、お酒飲んだら明日起きられなくなっちゃうのに。ウリエル、お酒は飲みすぎたらダメな飲み物って知ってるよ」
「明日も仕事なんだ、ちゃんと量は決めてる」
「あら、藤堂さんてばいつからそんなにいい子になったの?」
「うるさいよ、ラファエル」
藤堂は、苦笑しながらも満たされたように気が抜けていた。ウリエル、ラファエルと名を持つ娘たちはやいのやいのと声を上げている。
「五月蝿いわね。眠れないじゃないの」
騒ぎ立てる声に、ついにはガブリエルも起き出し、頬を膨らませて文句を並べた。
顔は赤くなり、目は寝惚けてとろりとしていた。
「ガブリエルったら、寝てる場合じゃないのよ。もう仕事に行く時間なんだから」
「ギャビーはお寝坊さんね!」
ウリエルとラファエルは、喧しく詰め寄った。ガブリエルは五月蝿そうに顔を顰めると、両頬をぱちんと叩き、首を振った。
「わかったわよ。酔いも覚めちゃったわ」
心做しか不満げな様子のガブリエルに、藤堂はふっと笑い出した。
四人の目が藤堂に向けられたが、気にもせずにくつくつと肩を震わせた。
先のひりついた時間と、この幼い時間の差が面白くて仕方なかった。
「行ってらっしゃい」
藤堂は四人に向けて手を振った。
四人の女は顔を見合せ、うっそりと微笑を浮かべる。
艶めかしく、狂気に満ちたそれは、藤堂を少なからず身震いさせた。
「じゃあまたね」
去って行く直前、ガブリエルが藤堂の額におざなりなキスをした。