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「継続は力なり」の本当の意味を知った

こんにちは。りなおです。
夏休み直前ぎりぎりに『山月記』と『人虎伝』の読み比べを終え、現在、学校は夏休みである。ただ、この二つの作品を「現代文」と「古典B」の漢文の授業で平行して読み、最後に読み比べができたことは授業者にとっても、生徒にとっても非常に有意義な時間になったと感じるのでここに残そうと思う。

「臆病」「自尊心」「尊大」「羞恥心」

『山月記』のメインの一つといえるこの4つのワードである。かなり考え抜かれたこの4つのワードの組み合わせが秀逸だ。授業では、この4つのワードの関係性に触れた。李徴は人との交わりを避けたため、人々から倨傲だ尊大だと言われた。しかし人々から見えた「尊大」な態度は李徴からすれば「羞恥心」の表れだった。人と交わると自分に才能がないということがバレてしまうかもしれない。「たいしたことない」と言われるかもしれない。だったら、最初から人々と交わらない方がよいという算段だ。そういう思いは「臆病」という態度となる。しかし、「臆病」といえども、自分には才能が半ばあると思っている。そう半ばね。余計なプライドを捨てきれないのだ。だから、師について教えてもらったり、同じ志の者同士で切磋琢磨できなかった。もしそんなことをすると「やっぱり才能がないから一生懸命にならなきゃいけないんだな」と思われるのが許せないのだ。だったら、初めから人々と交わるのを避けようとする。あれれ、元に戻ったではないか。と生徒に気付かせる。この4つのワードは捻じれた関係であり、結果が原因になるという悪循環なのだ。地獄である。

この「地獄」からどうすれば抜け出せるか?

生徒に考えてもらったのはこの問である。
結果が原因になるこの悪循環から逃れるためにはどうすればよいか?
「もっと人と交わればよかった」
「自分と向き合っていればよかった」
「プライドを捨てる」
「詩人になるための努力をする」などが意見として出て来た。
つまり、余計なプライドを捨てて自分と向き合い、もっと人と交わって詩人になるための努力をすれば、抜け出せるのではないかということだ。でも、李徴はそれをしなかった。それでは有名な詩人になる志が中途半端である。李徴もわかっている、「自分よりも才能のない者が、専一に才能を磨いたため立派な詩家になった」と気付いている。逆に、官吏という職を全うしていたら高官に就いたかもしれない。それで有名になったかもしれない。子どもの成長を見守り、余暇に詩作をする生活があったかもしれない。でも官吏という職も辞めた。つまり官吏も詩人もどちらも中途半端にした。

継続すること、やり抜くこと

ただ続けることが力になるのか?いまいちピンとこなかったが、授業をやっている最中に、妙に納得した。李徴は秀才であったが、何一つやり抜いたことがなかった。官吏も途中でやめた。詩人にもなれなかった。家族を幸せにすることもできなかった。自分に置き換えても、中途半端に思いが残っていたら、なかなか前に進めないよなと思ってしまう。継続すること、そしてやり抜くこと。これは人間を前進させる確かな力なのだなと、初めて読む小説でもないのに「山月記」からまた学んだ。これが文学の力でもある。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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