私の「好き」を支えてくれた大人たち

幼い頃、文章を書くのがとても好きだった。
今と違って携帯電話やインターネットなどもなかったし、テレビは一家に一台だったし、娯楽らしい娯楽がそんなになかったこともあり、暇さえあれば、ノートに何かを書き綴っている子供だった。夢中になって机に向かって書いて、泊りがけで出かけるときも、ノートとペンケースは欠かさず持ち歩いていた。
それだけ夢中になれて、文章を書くのが好きだと思えたのは、きっと周りの人たちが、私が書くことを受け入れて、認めて、褒めてくれていたからに他ならないと思う。

まずは母。
私が文章を書き始めたのは母がきっかけだ。
母は本業(?)はパート主婦だったが、セミプロのようなしがないイラストレーターだった。地域のフリーペーパーに挿絵を描いたり、新聞に漫画を投稿して掲載される程度には、私の幼少期も創作活動に打ち込んでいた。
そんな母は、よく私や弟を主人公にした絵本を書いてくれた。
私と弟が仲良く遊べるようにと作った歌や絵本、弟の見た夢や、私を主人公にした冒険譚。
それがとても嬉しくて楽しくて、いつしか私も自分を主人公にしたお話を書き始めた。
父が会社で不要になった紙をたくさん持って帰ってきてくれて、その裏にたくさん絵本を書いた。そんなことを続けていると、当時母が担当していたフリーペーパーの『翌春小学生になる地域の新一年生特集』に、「お話づくりが得意で既に著作が30作もある子ども」といった触れ込みで記事に掲載してくれた。そしてそれは、将来小説家になりたいという私の夢へとつながっていった。

母は自身のイラストの投稿のため、趣味で「公募ガイド」も購入していた。
小学生の頃、私はそれを見ては、自分も応募したいと思っていた。原稿用紙10枚程度の制限の短編小説のコンテストがあり、稚拙な子ども探偵ものの話を書き上げ、母に頼み、応募してもらった。
本当に稚拙な作品であったにも関わらず、母は「応募してもどうせ選考に通らないよ」といったことは一切言わず、また子供が応募するようなコンテストではなかったにも関わらず、ただ私が作品を送る手伝いをしてくれた。
もちろんその作品がどうにかなるとは思ってもいなかっただろうけど、私が文章を書くきっかけをくれたこと、その意欲を伸ばしてくれたのは間違いなく母だったと感じる。

母だけではなかった。
幼稚園の先生。
上記のように創作活動に打ち込んでは書いた話を幼稚園に持参し、先生に見せびらかしていた私。
お世辞にもおもしろいとも言えないものであったに違いないのに、先生はいつも読んでほめてくれた。
卒園時に、一人一言ずつ、先生から餞の言葉をもらうときも、「お話づくりがとっても上手なRukaちゃん」と私を形容し、褒めてくれた。

小学生になってからも、通っていた習字教室の先生や、それぞれの学年の時の担任の先生が、私がお願いしたら嫌がるでもなく作ったお話を読んでくれた。
3年生の担任の先生には、前述の公募に応募した作品を育休中の担任の先生に送り付けたことがある。返事の手紙には「感想云々ではなく、3年生がこんな作品を書けることがすごいと思う」というようなことが書かれていた。
ませた私は内容に関する感想が聞きたくて、先生のその感想が物足りないと思ってしまっていたけど、今思えば育休中で乳飲み子を抱えながら、教え子が一方的に送り付けてきた小説を読んで、手紙を書いてくださったことが本当にありがたいことだと思う。
6年生の担任の先生は、自身も大学まで演劇をやっていて、当時も学生の指導に当たっていたこともあり、私の書いた作品に対して、細かな品評(このシーンが素敵、もっとこうしたら良くなるなど)をくれたりもした。
子どもの書いたものを対等に尊重して扱ってくれていたことがとても嬉しかったことを記憶している。

母の実家に帰省した時は、祖父母や親戚にも見せびらかしていた。
そして感想をせがんだりした。
当然小学生の書いたものに感想もくそもなくて、親戚たちは「感想と言われてもなぁ」と特に何かそれに対して言葉をくれたわけではなかったけど、一番作品を読んでくれていたある叔母は、私の作った作品の登場人物の絵を書いて送ってくれたり、祖父は特段、お話を読んでくれてもいなかったけど、帰省中もせっせとノートに向かって文章を綴り続ける私を見てか、母の実家に迎えに来た私の父に対して「将来は小説家ですね」などと声をかけたりしていた。

他にも、小学校の同級生が面白がって作品を読んでくれたり、大学生時代に友達がブログをおもしろいと言ってくれたり、地域の文集に作文が掲載されたとか、中学生向けの新聞に受賞した作文が掲載されたとか、いろんな出会いやきっかけが私の「文章を書くことが好き」を強化していたけど、やっぱり子供時代に、馬鹿にすることなく文章を書くことや書いた作品を受け入れ、認め、肯定してくれた大人たちとの出会いが、一番私の「好き」を育み、自信を培わせてくれたのではないかと思う。
ここでいう自信は文章力とかそうした能力ではなく、自分の行いが受け入れられる、自分は文章を書くことが好きでいていいんだといったような自己肯定感につながる自信だったと思う。

今、小学生の息子が漫画を書いてる。
自由帳に5冊にもなる大作だ。
内容は好きなコミックやアニメをオマージュしたようなものではあるけど、彼はよく「漫画家になりたい」といったことを話している。
そんな彼に対して、私はあの時の大人たちのようになれているだろうかとふと思う。

正直絵も丁寧とは言えないし、内容はよく分からないことも多い。
かつて私が大人たちに言われたように、「感想と言われてもよく分からないけど、小学生で一応起承転結のあるストーリーが書けてすごいなぁ」と言った程度の気持ちになることが多い。
なるべく目を通して、肯定的な声掛けをするように心がけているけど、あの時の大人たちのように、心から彼を受け入れ、対等に接しているかなと振り返ることがよくある。
一方、保育園児の娘は、そんな息子の漫画を本当に楽しみに読んでいて、おもしろい、おもしろいと言っては、げらげら笑っている。
兄の漫画のは娘にとっては忖度なしにおもしろく、よく娘の落書き帳にも兄の漫画の登場人物が描かれている。
息子の第1号のファンである娘を見ていて、素敵な光景だなと思うし、私も息子に対してこうありたいなといつも思い、学ばせてもらっている。

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