燃ゆる

 少年はユスリカという昆虫だった。胴体は柔らかな毛が生えた太い部分とうっすらとした縞模様をもつ細い部分に分かれ、ビニールのような半透明の二枚目の羽は胴体とほとんど同じ大きさであり、体長は一センチメートルに満たない。六本の足は細長く、関節ごとに大きく屈折している。夏の水辺に立ちのぼる白い蚊柱を形成するのは少年とその仲間たちだった。
「あいつらは愚か者だ」
 少年は夕焼け空の真ん中で煌煌と光るお日様を見上げ、誰にともなく独り言ちた。
「深く考えることもなく、ただ馬鹿の一つ覚えみたいに周りの者たちの背中を追ってばかりいる。そこに自由と呼べるものがあるだろうか?仲間と同じ飯を食って、同じ水面を飛び交い、同じ光に向かい体をぶつけあっている。共存しなければならないという意識は俺たちを群れの中に縛りつけている。この広い世界をほとんど知ることもなく群れの中で死んでいく。それが俺には恐ろしくてたまらないのだ」
 少年は繰り返し訪れる日々に辟易としていた。仲間たちは毎日ほとんど同じといえるほど画一な生活を送っており、少年と仲間の生涯は重ね合わせてみても相違点を見つけるのが困難であるほどに似通った物になるのが常だった。少年はそのことに嫌気がさしており、仲間と自分とを区別する明晰な個性を手にすることを日々夢見ていた。しかし少年に名はなく、仲間たちにも名はなかった。それゆえに少年は行動をもって個性を創出しなければいけなかった。
「あの川に群れが見えるぞ」と、ひときわ大きな青年が声を上げると、「きっとあそこの川の水は美味しいんだ!」と誰ともなく声を重ね、しまいには一帯を飛んでいた仲間たち全員がその川へと飛んで行ってしまう。「あそこの光はひときわ強いぞ」と誰かが言うと、それを確かめることもなく皆その街灯へと飛んで行ってしまう。少年の仲間たちはそういう群れだった。少年はそんな群れから逃げ出したい欲求に幾度となく胸を衝かれたが、しかしそれ以上に孤独を恐怖しており、結局その日も藻が浮かんでいるどぶ川の上を仲間たちと飛び交い、日が暮れると住宅街の一角にあるくたびれた街灯へと走り飛んでいた。

 その日は月がいやに大きく、消えかかって時折点滅する街灯は平生と比較して、より一層くたびれて見えた。夜空で煌めく小さな星の光すら覆い隠してしまう白く大きな月の明かりは少年の心をちくりと刺激した。
「あぁ、俺は一体何をしているのだろう。今日も孤独を恐れ、今にも消えそうな小さな光に身を寄せている。この大きな月に照らされて、俺はどうしてこんな光にこだわってしまっているんだろう。またみんなと同じだ。大きな月の光のその向こうにもっと大きな光だってたくさんあるだろうに、どうして俺は」
 その時一羽のカラスが月を遮って飛んだ。白い光に真っ黒な影が浮かんで、そのままに闇夜へ消えていった。
「あのカラスは暗闇を恐れることもなくたった一羽で飛んでいる。もっと大きな猛禽がいつ現れるかも分からないのに、飲み込まれてしまいそうなほど白い光に身を重ねている。あのように俺も生きられたなら」
 月は相変わらず眩い光を容赦なく少年に注いだ。「あぁ、この街灯は素晴らしい」と誰かが言った。様々な声が同調を訴えた。その瞬間少年の心がずきりと痛んで、月の光は赤く変わった。
「恐ろしい。俺はこのまま死にゆくのだ。近いうちにあのカラスか大きなタカが俺を食い殺すのだ。俺が死んだあと、一体だれが悲しんでくれるだろう。いや、まず誰が俺に気づくだろう」
 少年は大きな目にいっぱいの涙を浮かべて振り返ってそのままに駆けだした。
「あぁ、ひとりが怖い。誰にも俺を知られずにただの群れの一員として生き続けるのが怖い。誰と居ても、あの群れの中では同じだ。俺でなくとも、俺と同じ振る舞いをする仲間がいるのだから。いつの日か親が死んでから俺はひとりだった。どうしてもそれに気が付けなかったのは、親が他の子の親と同じ生活を送っているからだ。そして俺もこのままではきっと同じなのだ。誰かも知らない女との間に子を産んで、その子が他の幼子と混ざるととうとう自分の子すらも見つけられず、我が子もまた俺を他の大人と同一視するのだ。集団の中にいて誰も俺を知らない。それ以上の孤独があるだろうか!」
 月から逃げるように飛びだし、とうとう見知った顔はなく、空を飛んでいるのはもっと大きな蛾や小さなハエたちばかりになった。振り返ってもユスリカの群れはどこにも見当たらなかった。
「とうとう俺はひとりになった。月の光すら建物にさえぎられている。しかしここでユスリカは俺だけだ。俺はついに俺として認められるのだ。…あぁ、しかし羽がちぎれそうだ。それにこの辺りは暗すぎる。寒い。怖い」
 少年は羽を休めるためマンションのベランダに飛びついた。そこにはタバコの吸い殻が散乱しており悪臭を放っていたので、少し休んで別の部屋へと移ろうかと思索を深めていると、窓ガラスがわずかに開いており、その隙間から小さな光が漏れ出ていること気が付いた。
 少年は考えることも忘れ、その小さな光の下へと駆けよった。
 そこは少年の他に虫は一匹もおらず、代わりに人間がすやすやと寝息を立てていた。ベランダへと漏れ出していた光の正体は人間の顔もとに置かれたスマートフォンだった。
「ここは理想通りの場所だ。光もあるし俺は唯一のユスリカだ。人間は起きるや否やほかでもない俺の存在を意識する。ユスリカの群れではなく俺のことを」
 しかしそこは完璧な場所ではなかった。光の近くは人間の寝息や動きによって大きく揺れるし、光から離れるとそこは一切の暗闇だった。少年は群れから逃げ出すうちに恐怖を存分に味わっていたため、これ以上暗闇に身を投げることができず、結局人間の体やスマートフォンの上で揺れに耐え休みながら飛び続けることを選んだ。

 時間が経つにつれ休養不足の足や羽は痛みを訴え、関節はこれ以上ない程に曲がった。光もまた決して強いものではなく、縋るにはあまりに心細かった。恐怖は次第に少年の心を蝕み、少年は仲間たちのことを思った。暗闇の落ちた部屋から覗く窓外の景色は明るく、すぐそばに明るい電灯が燦爛と光っていた。入り込む際に使った隙間は暗闇に溶け入り、少年はついに部屋から出ることが叶わないことを思い知った。
「先ほど月を飛んだカラスよ。どうか俺のことを」
 しかし少年の想いはどれも叶うことはなかった。
「あぁ、大人しく仲間と飛んでいれば、俺はもっとながく生きられたのに」
 少年はひとり逃げ出したことを後悔した。群れの中で誰にも自分として認められることのない孤独感は、真の孤独には代えがたいことを思い知ったのである。次第に憔悴する体はさらに少年を憂鬱にし、ついに少年は飛ぶのをやめた。
 些細な光に頼るのをやめ、窓外に浮かぶ星や電灯の光に目を遣っていると、ユスリカの大群が近くの電灯に集っているのが見えた。しかしそれが少年の生まれた群れなのかそうでないのかを判別できなかった少年は、ひどく胸を痛めた。ユスリカたちが集う電灯はもともと住んでいた場所のものよりも明るかった。

 空が明るむまで窓外に見惚れていると、人間は伸びをして起き上がった。少年は恐怖した。これで最期だ。少年は他者と自分を分ける明確な個性を手にするため走ったが、その挙句彼が手にしたのものは孤独だった。孤独の中にいては個性もへったくれもない。
「この光さえ強ければ、きっと多くの仲間が俺を追い、俺は新たな光の発見者として認められただろうに。その瞬間俺は群れの一員としてではなく先導者として認識されるはずだったのに」
 先刻まで胸を覆っていた後悔の念は次第にスマートフォンへの恨みに変わっていった。死を目前に控えて、自分の行いを悔やむことは意味をなさないと無意識のうちに気が付いたのである。ありふれた幸福を享受する代わりに非凡な特権を夢見た少年は、冒険の果てにありふれた幸福のすばらしさを空想し、最後には自分の不運を恨むようになった。
 空が明るんでも、まだ電灯は光を放ち続けていた。その周りを飛び交うユスリカはわずかに数を減らしたが、未だ大勢がそこに留まり続けている。少年はその様子にすっかり心を奪われ、たとえ一匹のユスリカとしてしか意識されることがなくともあの生活に戻れたら、と空想し、そのたびにそれが叶わないであろうことを思い至った。
 人間が半開きの目で少年を捉えた。少年は肚を決め仲間たちのことを思ったが、脳裏に浮かぶユスリカが果たして幼少から先刻までを共にした仲間たちであるのかという点において確証を持てず、悲しみをも超越した虚しさの極地に至った。ついに身じろぎすらすることなく、ただ窓外を飛ぶユスリカと窓ガラスに映る人間の姿を見遣り、少年は人間に捕えられた。
 しかし人間は少年を殺すことはなく、それどころか窓を開けたかと思うと少年の体をベランダへと投げ出し、ぴしゃりと窓を閉め切った。
 少年は当惑のままに飛び出し、青白い空の下で光る電灯へと駆けよった。
 そこでユスリカたちは例のごとくその電灯に陶酔し、他の光には一瞥も与えることがなかった。少年が新たに群れに加わったことにも気が付かない様子で、近くを飛ぶユスリカは旧友めいた口調で「良い光だ」と言った。少年は実際に彼が旧友であるように感じ「あぁ、ここは素晴らしい」と答えた。また誰かが「そろそろ栄養補給かな」と言うと、少年は彼の背中を追った。

 どぶ川を飛ぶユスリカが減ったので、少年は電灯へと移り飛んだ。昨夜と同じ電灯だった。
 光は点滅することもなく、ただ同じ強さの光を少年の体に注いだ。少年の横を飛ぶユスリカは、昼間どぶ川の上で少年と子を作った女だった。女は周りを飛ぶ仲間に目を遣ることもなく、ただ一心に光へと飛んでいた。「素敵な光だわ」と少女が言ったので少年は「これが永遠ならば」と答えた。後ろを飛ぶユスリカは「俺は幸福だ」と声を重ねた。少年の心から孤独感が消え去ったわけではない。相変わらず少年が次の日出会う女が横にいる女であるという確証をもたなかったし、それどころか隣の女との間に子を儲けたことにさえ自信がなかった。少年は相変わらず個性を創出し、他でもない自分のことを他者から認められたいと心の奥底から願っていた。しかしその願いを諦めさせるほどに昨日の恐怖は少年の心を支配していた。
 少年は女の瞳を盗み見た。そこに少年の姿は映らず、ただ長い足と大きな羽をはためかせる昆虫と強い光が反射しているだけだった。そして他の者から見た少年の姿はそれと同じであるはずだった。少年は再び虚無に支配された。月の周りに薄い靄が移ろい、輪郭がぼやけるようにして光は果てしない遠方まで続いていた。しかし少年はその果てにあるのが自由や個性ではなく、それすらも意味をなさない孤独の境地であることを知っていたため、思考をやめ、目のまえの光へと飛ぶことに専心した。
 ふと小さな羽音が耳を衝いた。振り返ると昨日少年が寄ったタバコ塗れの汚い部屋に多くのユスリカが飛んでいた。そこからは目前の光と相変わらないどころかそれ以上の光が部屋から漏れ出ていた。
「あの、部屋は」
 少年の心を真っ黒な靄が浮かんで、池の水面のごとく風に揺れてもついに晴れることはなく、ただ少年は暗海のどん底で思索を深めることしかできなくなった。
「俺がもう少し忍耐強ければ、俺がもう少し自由へ執着していれば、俺がもう少し俺の理想へと走れれば」
 そして少年の悔恨は周囲を取り囲むユスリカの大群への嫌悪へと変わった。
「こいつらはみんな愚か者だ。よく考えもせず、ただ近くの光が最高の光であるかのような妄想に駆られて思考をやめている。周りの輩に集うことしか能のない馬鹿だ。俺は違う。俺は自由を求めた。自由のために戦いもした。戦うことすらせず、目前の些細な幸せが生涯を通して成すべき意義のように勘違いしている。馬鹿だ。戦うどころか考えるこすらしない馬鹿だ。馬鹿ばっかりだ」
 その時一羽の猛禽が鳴いた。見上げると光に大きな影が映り、恐怖のままに振り向くと、少年の体を一羽の鳥がとらえた。
「あのカラスか。今更俺を」
 少年を捉えたのは猛禽に追われた名もないカラスだった。
 少年の意識はそこで途絶えた。ユスリカの大群は変わらず光に身を寄せ合っていた。

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