日記(2024.2.29)


 長い夢を見ていたのかもしれない。一人で過ごす時間に生の実感が伴っていなかったのは、決して憂鬱のためなんかではない。もっと浅はかで低い次元にある、あるいは卑俗な、些末な本能のためである。それに突き動かされたのは、ともすれば憂鬱が原因の一つであるかもしれないが、憂鬱こそが原動力であるはずがない。
 久しぶりに自室へ帰り、溜まったごみが未だ異臭を放ってはいないことに安堵してすぐにそこから出る。エレベーターでマンバンの男子大学生とすれ違い、エントランスに貼られた注意書きや住民向けの連絡を一瞥して自動ドアをくぐる。一方通行の車道に出て、無音の道を歩く。数か月前までは日常であった生活に触れる。私はふと修道院で車が燃えていたことを思い出した。黒煙を上げながら燃え滾る車に当惑し、言葉にならない焦りを吐き出すシスターと、ごみ捨て場で泣きわめくカラス。遠くに消防車のサイレンを聞きながら、私はそこを通り過ぎた。その先、うなぎ屋の前でカエルが死んでいた。おそらくは車に轢かれたのだろう。夕闇のなかに赤い花が咲いて、異質な雰囲気を醸し出していたが、翌日には血だまりだけになり、一週間もすればそれすらも認めることは出来なかった。突き当りで右に曲がると、ごみの散乱するアパートメントがある。そのあたりではよく外国人が喧騒を作り、私はその場所を忌み嫌っていた。さらに歩くと小さな鉄橋がある。私がよく川を見下ろしたその場所にはもう羽虫の大群はいない。
 それからしばらく急峻な坂を上る。私は歩きながらここがどこであるのか分からなくなった。私は何に縛られ、何に突き動かされ、どこへ行くと言うのか、一切が闇に包まれた。次第に足元さえおぼつかなくなり、空中で舞っているような心地になった。気が付くと住宅街に高くそびえるコンビニエンスストアの看板があり、恋人とキャッチボールをした公園につく。自販機で買った缶コーヒーを啜りながら、脇を流れる冷や汗を止めることが出来なかった。ふと、私は死んでいるのだと思い始め、それを否定する明確な理由が見つけられなかった。すれ違う人は皆、私を呼び止めはしないし、避けようともしない。私が避けなければ当たっていただろうか。もし私が誰かとぶつかりさえすれば、ようやく私が実体をもつ人間であると証明される。再び道に出て歩を進める。そこには誰もいなく、ダウンジャケットをクリーニングに出した店は閉店を報せている。
 私はなんだか恐ろしい気持ちになって恋人の部屋に入るが、当然そこには誰もいない。恋人は帰省しているのだ。誰もいるはずがない。そう思っても気持ちはどんよりとしたままで、おもむろにパソコンを開くが、長考しなければローマ字を思い出すことが出来ず、憂鬱になってすぐにシャットダウンする。生活が困難になる予感があった。それは早朝からあって、私は努めてそれを無視していたが、現に私は自らの生を見失っている。思えば早朝、私の身に奇妙なことがあった。今日はTOEICの試験を受ける日で、朝早くに起き、準備をしていたのだが、机に置かれた受験票を見るや否や涙があふれ出し、外に出るのが怖くてたまらなくなった。膝から力が抜け、思わずその場に座り込むといよいよ涙は止まらず、私は深く自分を叱咤しながら気が付くと眠りについていた。試験はとうに始まっており、私は身を焦がす焦燥の念に押しつぶされながら布団にくるまっていた。それからしばらくが経ってようやく起き上がると、ほとんど習性のように酒を飲み、楽観に飲まれてようやく私は自室へと帰れたのであった。
 私は今どこにいて、私は一体何者であって、私の正体は誰に認められるのであろう。私は私にすらも認めるのが困難であるほどにふわふわと揺蕩い、あるいは空気同然のただあるがままにあるだけの存在である。明確な輪郭は私の内部にはなく、視界に写る手や足の他に私を世界と区別するものはない。私はもしかすると存在しないものなのかもしれない。存在していても、それは決して主観で見ることは出来ず、客観することもできない。私は生きていると言えるかもしれないが、同時に死んでいると言うことが出来るかもしれない。
 幼い頃から宇宙や常世のことについて考えを巡らせては恐ろしくなっていた。命というものが分からず、死ぬことの先に何があるのか考えていた。生徒になると、私は空気同然であるという妄念がより一層強まり、私の世界にうつる他者同様に扱われると、ひどく安堵したものだ。私が空気としてではなく私として扱われることに言いようのない温もりを覚え、まだ生きていける気持ちになっていたのだ。
 しかし今、私は再び浮遊感にも似た生と死の茫漠さに掴まれている。歩いていても、それは私の実感に過ぎず、実際には歩いていないのではないか。私は誰にも映らない存在で、知覚されることはないのではないだろうか。存在することと生きることは同義か。同義であるなら、死とは一体何であろう。死んだそのあと存在がなくなるのであれば、宗教は何を意味し、科学はどこまで及ぶのか。私には何もわからない。生と死とは、夢と現実のようなものなのかもしれない。私は夢を見ている。そして私は死んでいる。死んでいる、と誰かに認めてほしいのだが、誰かに認められるのは生きている証拠ではなかろうか。つまり私が死の判断を受けることを自覚できるのであれば、私は生きていると言えるのではないだろうか。自覚できなくなるのが死なら、私は死んでいる。現に、誰も私を認めていないではないか。
 また頭の中で高尚な物語が始まる。私はゆっくりと眠りにつく。

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