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わがアイドル、コウボウダイシ。最近のことばでいやあ「推し」ですな 下

即身成仏。ボクは形式上でなぞらえることはできるが、その奥深いところには全く到達することはできないし、その身体と精神が融合するところに本質があるとするのならば、ボクは全く歯が立たないし、その境地を獲得することはできない。要するにボクの才能では、お手上げ状態であって、ほとんど諦めの境地でもある。

師資相承の体験の教えとして存在するのが真言密教の教えとするのならば、ボクは脱落者であると思うし、ある意味、天才・空海だからこそ成しえた教えであると言ってもいい。密教とは「秘密仏教」を表し、本来的には、その奥義は、あくまで師匠から弟子に伝授するものであって、公開されるのもではない。大衆に開示することは越法罪となる。となればワタシ、大罪を冒していることになるわいな。今なら奥義もどきを伝えるだけだから執行猶予でっしゃろ。ほんまに会得したら黙っときます。

***唯一無二

先日、弘法さんについてのテレビ番組をみてたら、当然のことながら、弘法さんを宗教者として掘り下げようとしていた。40年ほど弘法さんを勉強してきたボクの主観としては、宗教の枠組みだけで弘法さんをとらえてしまうと逆に本来の姿や魅力が見えてこないような気がする。要するに弘法さんは、1人の宗教者というよりは爆発的な天才であり、日本史上唯一無二の表現者(アーティスト)という方がピッタリくる。だからこそ、他宗旨の祖師様より伝説的要素や信仰的要素が非常に強いのではないか。

唯一無二の体験者だからこそ、それを受け継いでいくことも困難なのであり、その「後継者(第九祖、弘法さんは第八祖ね)」たるべき存在が出現してこないのも当然だ。*1 あくまでも密教であるのなら「自内証」*2 における神秘体験が必要不可欠になってくる。天才に近づくのは容易ではない。

***推しですな

ここでご理解頂きたいことは、真言宗と他宗においての優劣など毛ほども思っていないわけで、わが「推し」、弘法大師を素直に子どものように、すごいなあ、と思うのである。同時代に活躍した最澄さんも素晴らしい宗教者だ。比叡山からどれだけすごいお坊さんがでてますことやら。浄土系のお念仏の教えでも、禅宗の座禅の教えも、本当に尊く素晴らしい教えですな。聖書もクルアーンも読むに値する。

突然ですが、「推し」のある人生は、ないよりも充実しています。と、「推し」のあるワタクシは思いますが、「推し」を持たない人生も、他者に何かを委ねるようなところが一切なくて、それはそれは格好いい。

***路傍の人じゃつまんないよね

直接関係はないけれど、芥川龍之介は小説「芋粥」で、それが好きで好きでたまらない男のぶざまな姿を描いた。でも、その視線は優しく、こんなふうに書いている。「人間は時として、満たされるか満たされないか分からない欲望のために一生を捧げてしまう。その愚を笑う者は結局、人生に対する路傍の人にすぎない」。とことん好きになるものがあった方がいいんじゃないですかね。

ありゃ、途中から「推し」論になってしまったが、要するに本日書きたかったことは、弘法さんすげ~、ということなんです。ありゃりゃ、愚僧チョークー、お粗末。

*1=デジタル大辞泉によると、第七祖は真言宗で崇拝される七人の祖師をいいます。大日如来、金剛薩埵(こんごうさった)、竜猛(りゅうみょう)、竜智、金剛智、不空、恵果。または、竜猛、竜智、金剛智、不空、善無畏(ぜんむい)、一行、恵果の七人です。弘法大師は八人目だから、第八祖、その後継者となれば第九祖となります。
*2=日本国語大辞典によると、自己の内心のうちにおけるさとり、だそうです。

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