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チョークー的、仏教の成り立ち(下)

もう一つ、例を挙げますよ。アナウンサーの古館伊知郎さんも、ボクと同じ「釈迦推し」らしいですね。仏教学者の佐々木閑さんと『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』(PHP新書)という本を書かれています。その中に、興味深い一節があるんです。

🔴幸福って何ですか

ブラジルで、狩猟採集生活の先住民を取材した時のこと。集落の長に「あなた方の幸福感を教えてほしい」と尋ねたのだそうです。

びっくりするような答えが返ってきました。

「聞いてくれるのはうれしいけれど、われわれは、あなたのおっしゃる『幸福』という概念も言葉も持ち合わせていない。だからなんと言っていいか」

幸福という概念があるからこそ、不幸は成立するのですね。ここには幸福も不幸もなかったのです。

🔴覚りですね

ボクはお坊さんですから、この話を読んで、まずこう思いましたね。お釈迦さまが求めた覚りの世界そのものじゃないか、とね。少なくとも精神的にはそう言えるのではないでしょうか。

お釈迦さまはこう言っています。「覚りとは、分け隔てのない『無分別智』である」。無分別智とは、仏教で、物事が二極化する前の状態、ありのままの世界を言います。わたしもあなたもない、あれもこれもない、主体もなく客体もない、渾然一体とした状態のことですね。

ジャングルの、何も情報がない中だからこそ成り立つ話であって、あふれる情報の中で暮らすわれわれには、とてもまねが出来ない、と現代人ならまずは考えます。情報=欲望の渦の中で生きていますからね。

でもそれが、すべての苦しみの始まりなんです。

🔴繰り返しますが

幸福も不幸もない世界って、そりゃ不幸じゃねえか、という人もいるでしょうね。欲望にまみれた生活も、悪くはないですよ。ワタクシもいまだ修行中の身、そういう楽しみも分からないわけではございません。

しかしやね、世の中、決して思いのままになるものじゃありません。生老病死、思いのままにならない。繰り返しになりますが、これこそ仏教でいうところの「苦」の源泉ですな。

もう一度言いますね。もう戻れないですよ、縄文の昔には。でもね、ボクはね、想像してみるだけで生活を変えるきっかけになる、と思っています。プレーンな生活の究極の見本として、縄文の暮らしを想像してみたらどうでしょう。愚僧チョークー、そうお勧めするのであります。合掌。


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