見出し画像

コーヒー&シガレッツ、コーヒー&オボウサン。ジャームッシュじゃないよ(下)

***仏教的に解説すると

 ワタクシもお坊さんですね。この喫茶店のいきさつを観ながら、何だか初期仏教から大乗仏教への変遷に似ているなと思ったんです。

 以前お話したことがありますが、お釈迦さまの時代からの初期仏教は、「自利」がその目的でした。出家し、自ら修行して解脱を目指すのだ、ということですね。よその人のことなんぞしらんわい、ということでもなかったでしょうが、基本は我と我が身ですよね。

 対して、お釈迦さま入滅500年後に始まったムーブメントである大乗仏教は、特別の修行をした一部の人しか救われないなんて、そんなんないわ、というわけです。俺だって仕事があるんだぜ。修行なんてやってられっか。俺が働かなきゃ、お坊さんだって困るのと違うか。働く俺がだめで、働かない坊さんが救われる。そんなのおかしい、と言ったかどうか。取りあえず、在家の人々だって、救済される方法があるんじゃねえか、と主張したんです。
 
 そのキーワードは「利他」。それぞれがみんなの幸せを願えば、みんなが救われるんじゃね。プロにあるまじき乱暴な要約となってしまいましたが、そんな考えですね。「利他」を追求すると「自利」が完成するといった道筋です。要するに仏教が大衆に根ざし、より社会性や時代性にマッチさせることを優先したということなんでしょう。修行エリートばっかり救われるなんて、そりゃたまらん、という感じですかね。

***カルトのヒミツ

 大衆とともに、といった調子で始まったはずの大乗仏教でしたが、いつの間にかエスタブリッシュメントとなり、お寺の中に引きこもるようになってしまいました。組織論的にいやあ、いや組織論で読み解けるのかどうか知りませんが、草創期の思いとはだいぶん違った姿になってしまうといったことは、団体にはよくあることです。大乗仏教も同じですね。みんな偉くなっちゃうんです。というか偉くなったと勘違いしちゃうんです。教義も複雑になっていますしね。この辺、感覚でものを言っていますから、真言宗の公式見解ではありませんよ。チョークー的バイアスかかりまくりの仏教史ですので誤解なきよう。

 取りあえずの人生の大事に、お寺は、手を合わせる場所として、機能をまだ果たしている点もありますが、お坊さんは、瀬戸内寂聴さんのようなまれな例を除いてあまり頼りにされませんと、言いきっちゃうのもボーズとしていかがなものでしょうか。けれども現実的にはそうですね。呼ばれるのは葬式だけ、プロとして扱われるのはそのわずかな瞬間だけじゃないか、と自虐的に思います。まあ、お坊さんもいろいろですから、実際、頼りになりそうにない人もいらっしゃる。ワタクシなんかも例外じゃないですね。

 でもね、旧統一教会のような問題が起こりますと、われら既成仏教のお坊さんは悩みます。どうしてカルトにひかれるのだろう。どうして既成仏教ではだめなんだろう、とね。とにかく、私らだってみんなの役に立ちたいのです。お寺は現世利益をもたらすパワースポットではありません。一人一人の悩みに寄り添いたいのです。お経を勉強しますとね、それだけの力は仏教にありますよ、と確信しております。どうしてそうならないのか。散々書いてきましたけど、そりゃそうやろう、と周りからは言われます。世間はよくご存じです。

 ここはペーパードリップの発想が必要かもしれません。特別の道具がなくったって幸せになれます。特別の修行も必要ないです。だってみんなが幸せになりたいと思って生きているんですから。幸せになっている人が、実際にいくらでもいるのですから。幸せ=解脱というわけではございませんが、当座はそれで間に合いますよね。

 誤解しないでください。修行に意味がないということでは全くありません。できる人はやればいい。ですが幸せになる道がその一本ということはないのです。幸せになる。ささやかながらもそのお手伝いができればな、と愚僧チョークー、そう思うわけであります。合掌。

 この項、いまひとつまとまりきらず。無念。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?