般若心経のことども3 「再び空について」
時間性からの解釈
たとえば時計を思い浮かべてください。誰にはばかることなく針は進み続けていますね。行きつ戻りつするようなことはない。当たり前のようですが、ふと、怖くなったりしませんか。私たちの思いとは関係なく、時間というものは、音もたてずに動いているのです。私たちは、止めようのない時の流れの中で生きています。
練習問題といきましょう。テーブルの上にリンゴがあります。そのまま、3年間放置すればどうなるでしょうか? 当然ながら成長はしませんね。すっかり腐ってしまい、みずみずしい姿は見る影もなくなってしまうことでしょう。
では、このリンゴはいつからそんなふうに変わってしまったのですか。変わり始めた一点を探そうとしても、それは無駄に終わるでしょう。机の上に置かれた瞬間、一刹那(せつな)もとどまることなく変化しているからです。立ち現れては消えていく、こうしたことを、難しい言葉を使えば「刹那滅」と言います。
リンゴの本質といったときに、それが何をさすでしょう。変わり続けているのだから、固定的な実体などありません。リンゴと呼ばれているものの実体は「空」なんです。リンゴそのものを見ていたつもりでも、そんなものはそもそもなかったのです。
ボクたち人間も例外ではありません。母親のおなかから誕生し、それぞれの人生を歩み、そして去っていく。「ボク」の本質とは何でしょう。実体とは。ボクたちだって変わり続けています。だから「そのもの」なんてのは、ございません。ボクの...といってるうちに変わってしまいます。やはり「空」なのです。
縁起性からの解釈
仏教には「縁起」という法則が存在します。縁起は現代用語に訳すと「相互依存の関係性」ということになります。全てのものが関係性により成立しています。
ワタクシが好きな本で考えてみましょう。購読者、本屋さん、運送屋さん、出版社さん、著者、紙という素材、木を育てる自然環境などなど、一冊の本が手元に届くまで、どれほど多くの人やものが関係していることか。どれが欠けても、書籍の出版販売サイクルはスムーズに回りません。ことほどさように、あらゆるものはそれ単独で存在することはできません。万物は自立存在できないのです。
たとえば家を思い出してみましょう。柱、屋根、窓、外壁など、それぞれのパーツが組み合わさることで、ようやく家として成立しています。家というものがあって、それが独自に存在している訳ではありません。あるのは柱や壁であって、家ではありません。関係は存在に先立つ。万物は関係性の総体であり、だからこそ実体はなく「空」なのである、というほかないのです。
分別なし、それは結構なこと
この「空」を智恵に転換すると「無分別智」ということになります。「分別なし」の教えです。一般に「分別がない」とは、いいことには使われません。「いい大人のくせに分別がない」といえば、非難の言葉になります。ですが、仏教的には素晴らしいことなんです。仏教的に解釈すれば無分別は「分け隔てがない」ことを示し、執着から解放されることも意味しています。
ボクたちは「良い・悪い」「好き・嫌い」など、自分の都合や思いをモノサシにして生活しています。その自分の都合や思いから離れ、「ありのまま」に感じることが大切です。それは「二極化する前の状態」ともいえます。これから勉強する般若心経の本文中にも「不生・不滅」「不垢・不浄」「不増・不減」「煩悩・悟り」なんてのも出てきます。
無分別智を生活の実践としての言葉に変換すると「全てのことを受け入れる」となります。苦も楽もない、良いも悪いもない、ありのままを受け入れること。そんなことできるわけがないじゃないか、という人もいるでしょう。その通りです。簡単に悟りが開けるわけがないのです。
実体なんて絶対的なものは、この世に存在しないんだよ。そう聞けば、この世界がいかに「絶対」に執着し、混乱しているか、見えてきます。我の正義を絶対化し、壊滅的な破壊すらいとわない。戦争などその象徴でしょう。人間も動物も命あるものはすべて関係の中で生きていると意識すること。そうすればきっと、あなたの生き方も変わってきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?