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インドに落ちた愚人ども。。。6     クシナガラ 苦しながら

***チュンダ≠ユダ説

最期の供養者チュンダは、キリスト教におけるユダのような存在にも思えるんですけど、仏教とはまるで考え方が違いますね。ユダなんかいまでも、キリストを裏切った、と忌み嫌われていますもの。キリストだって一度死んで、復活しないとただの反政府主義者じゃないですか。裏切りだって、あらかじめ神の計画に入っていたのですから、2千年にもわたって嫌わなくてもいいんじゃないの、と思ったりもしますが、どうでしょう。

お釈迦様の葬儀は遺言の通り、弟子達ではなく在家信者によって執り行われ、遺体は荼毘にふされました。火葬後に残った遺骨(仏舎利ですね)は、参列していた多くの国王によってそれぞれの国々に持ち帰られて、仏塔(ストゥーパ)に納め懇ろに祀られたのだそうです。

今現在、寺院の供養にて使用されている「卒塔婆」は、このストゥーパの音写であり、だからこそ卒塔婆は五輪塔の形をしているんですよ。

***ここからが非常に重要です

お釈迦様が入滅され、弟子たちは「あっ、どうしよう!」と大慌て。「このままにしてたら、いつかお釈迦様の教えを忘れてしまうよね」と。お釈迦様存命中は「口伝」でした。弟子たちはお釈迦様の教えを聞くだけで、書き残してきませんでした。尊き言葉を書き写すなんて失礼でしょ、ということだったんですね。

***子曰く

弟子たちはすぐに「結集」というミーティングを開きました。扱いに関して協議した結果、「いろいろあるでしょうが、もう書き残さないと仕方ないね」と意を決しました。それぞれが、自分が聞いた内容を「ガータ」という散文・韻文で、植物染料で、葉っぱや木簡にしたためていったんです。

それが何年、何十年、何百年の時を経て、経典というテキストになっていったんです。経典というものは、お釈迦様が書いたのではないのですよ。弟子たちの手によるものなんです。だからです。多くの経典の文頭に「如是我聞」とあるでしょ。「こんなふうに聞きましたよ」と始まるんです。論語の「子曰く」と一緒ですね。

***いただけませんなあ

お釈迦様の入滅から1000年後、日本へ伝来してきた仏教です。江戸時代には檀家制度、つまりは権力と一体化して力を肥大化させたりもします。仕方がないこととはいえ、これはいただけませなんだなあ。明治時代には、今度は神道が権力と結びついて、仏教倒せ、廃仏毀釈なんてことも起こります。むちゃくちゃですな。

政教分離は、近代社会の基礎ですな。

権力からの圧迫は受けてはおりませんが、日本仏教は自滅しつつありますねえ。「葬式仏教」なんて言われてますよ。権力の庇護がなかったら、だめなんですかね。

そうじゃありませんね。仏教には2500年の智恵が生きています。生きている者のための宗教なんです。一人でも多くの人にそのことを知ってもらいたい、と涅槃の地であらためて思ったのであります。

南無釈迦牟尼仏


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