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心の窓を開いてみれば

新しい何かを発見する方法を、ワタクシは「心の窓を開く」と表現しています。心の窓を開き「こうでなければならない」といった固定した見方から自由になれば、物事には多様な価値があることに気付きます。

●●●万能細胞ごときもの

目の前にガラス容器があるとします。コップと名前をつけてしまえば、飲むための器になりますが、何か料理を放り込んでみましょう。もうコップじゃなくなりますね。花を生ければ、花瓶に早変わりです。

言語学の先生なら上手に説明できるのでしょうが、ワタシゃ本業、僧侶ですから、そないにうまいことは言えません。ガラス容器のたとえ、つまりは「存在の意味は、その物に名前をつけることで生まれる」と言いたいのです。

他の物と区別したとき、言い換えれば他の物との差異を発見したとき、その物に名前がつけられます。ということは、です。名前が付く前の「そのもの」、他の何物にも分化していない状態を、あらゆる物はもっている。なにものにでもなることのできる可能性を、あらゆる物、者がもっているんです。万能細胞を想像してもらえれば分かってもらえますかね。

●●●名前がつくとは

名前がつく、ということは、そのものの方向性や意味が固定化されるということに他なりません。いったん定義づけられてしまうと、そこから自由になるのは簡単なことではありません。

この世の中には名前があふれている。窮屈ですよね。概ねそんなに外れてはいないのでしょうが、名前がつくことで失われている可能性もあるのではないか、と思います。

「心の窓を開く」とは、固定観念から自由になって、なにものかに分化する前の、そのものを感じてみようということです。

●●●自分探しが失敗するわけ

「自分探し」をするために国内外に旅をする人がいがいますよね。旅によっていろんなパラダイムに自分の身体をさらして、まとわりついている名前をはがし、自分そのものに出会おうという試みなのでしょう。

しかし、今の自分の再確認に終わることがほとんどではないでしょうか。名前をはがす行為は、それほど難しいということです。そもそも「自分探し」といいながら、はなから「自己肯定」したいだけじゃん、と性格の悪いワタクシは思ったりもしますが、せっかくなんだもの、変わろうよ。ワタクシ、強く推奨したいですね。

旅に出なくても自分探しはできます。要するに、いつでもどこでも、自分の小さな価値観にとらわれず心の窓を大きく開いてみれば、新しい何かを発見し、新しい自分自身を見つけることができるんじゃないでしょうか。

●●●ワタクシやりまっせ

ワタクシ自身はちょっとした放浪者です。生まれ育った大阪から、高野山へ向かい、アメリカに送られて、ついには徳島へ。時々に大いなる学びはあったけれども、還暦を過ぎた今も、その気さえあれば、再び新しい自分をつかまえることはできるし、新たなるワクワクを手に入れる自信はあるんです。

年食ったら、少々面倒にはなりますがね。

実はね、ワタクシ、少し前から「仏教のヒップホップ化」ということを考えておりまして、音楽・絵画・ビジュアルなどを独自の視点で展開し、現福寺をアートギャラリー的なお寺に変えてしまおうと計画しています。

ひと昔前なら、こんなこと言い出そうものなら、フルボッコされたでしょうが、今は「へえー、それもええやん」と簡単に肯定されそうです。「存在の意味さん」は、何でもかんでも自分に取り込んでやろうと貪欲です。社会とはあらゆるものを「己の意味の体系」のどこかに位置づけないと不安でいられないのです。

そんな場所から連れ出して、新しい世界を見せてあげましょう。愚僧チョークー、言うことだけは天才並みだなあ、と少しく頬を赤らめながら、やや大きめに夢を語るのであります。合掌。

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