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真実はひとつじゃない京極堂シリーズ

この度、京極夏彦の小説
「絡新婦の理(じょろうぐものことわり)」
「狂骨の夢」
読了した。
いわゆる探偵小説とか
推理小説の部類になるのだろうか。
読み応えあるので面白いんだがふと気づいたことがある。
これら小説に流れるテーマがアレと真逆なのだ。
「真実はいつもひとつ!」
見た目は子ども頭脳は大人な彼のこと。
アレも探偵推理ものだけどね

今回読んできた京極堂シリーズは
「真実は人の数だけある」

コナン君とは全く逆のことを言うのだ京極堂は。
実は本編の中心人物“京極堂”は事件を解決したりはしない。「憑き物落とし」という形で事件の全容を明らかにするだけだ。そこが特殊で面白い。
妖怪や怪談話に見える難事件も
京極堂の手に掛かると現実味を帯び始める。
「この世に不思議なことなど一つもないのだよ」
彼の決まり文句ね。

さてさてこの「憑き物落とし」というのが特殊で面白いわけ。
ひとことじゃ言えないので例え話で語ろう。

ある事件を見てAさんは「三角形に見える」と言った
だがBさんは「丸に見える」と言うのだ。
しかし京極堂は2人とも間違っていないと言う
彼はこの事件の形が円錐形だと明らかにする。
ちょうど富士山のように🗻
チョコのアポロのように
横から見れば三角形、上から見れば丸なのだ

AさんもBさんも、己の見方に縛られあらぬ思い込みを抱いて苦しんでしまう。
その全容を明らかにすることで彼らの苦しんでいた幻想を払い落とす。
これが「憑き物落とし」ということ。
全てが明らかになり、救われるものもいれば不幸になるものもいる。そういう構成になっているわけね。
さらに例えれば「幽霊を見た」という人と「幽霊は見なかった」という人はどちらも真実なのだ。
幽霊を見てしまった人は錯覚だろうと見えてしまったわけだから否定のしようがない。
幽霊が見えなかった人も自分で体感したわけだから、これまた真実。
それをなぜ幽霊と思ってしまったか。そこを解明するのが京極堂のお仕事。
タイトルからも分かる通り怪談話のようでいて
妖怪や幽霊は出てこない。
そう感じてしまった人間が迷いに迷って京極堂の店のドアを叩くのだ。
真実はひとつじゃない。人の数だけある
「この世に不思議なことなど一つもないのだよ」

兼ねてから水木しげる氏とも懇意にしていた作者は、妖怪話を否定はしない。
見た人聞いた人それも真実だと断言し、そこから現実的な物語を描く。
その構成が素晴らしいし、自分が怖い話や妖怪が好きな理由とマッチしてて面白いのだ。
こういう話を待っていた、という感じだ

さらにこの小説シリーズに出てくるキャラクターもみんな濃くて面白い。
漫画にしても良さそうだが、話の内容が濃密すぎてちょっと難しいだろうなとも思う。

ちなみに読んでいたら小説のキャラクターを描きたくなった。自分なりに
ここにまとめておこうと思う。

中禅寺敦子
“京極堂”の妹。兄に似ず可愛らしいボーイッシュ
時折見せる仕草は兄と似る
伊佐間一成
考えすぎて結局返事が「うん」しか言えない男
何も考えてないと勘違いされやすい
榎木津礼二郎
調査も推理もしない探偵。常に明るい口調
「この大馬鹿者!」という大馬鹿者
”京極堂“ 中禅寺秋彦
死神のような出立ち。古書店の店主だが祈祷師
神主でもある

まだまだ面白いキャラクターが出てくる。
別の話で脇役が主人公級に活躍することもある。そういった意味で
スピンオフものとして捉えても面白い。

国語の辞書くらいの分厚さがあるのがまたいい。
何日も楽しめる小説。
おすすめはしないが、面白さは語りたい
そんな小説なのである


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