一首評 唐津いづみ
今回の評は内容からではなく、うららといづみさんの出会いからゆっくり話していこうかなと思います。多分、ちょっと長い文章になるよん。
うららは地元の大好きなお店で「ルヌガンガ」というブックカフェによく行きまして、浪人生の1年で50回ぐらい行きました
まあそのくらいよく行くお店だったのでうららが短歌をやっていることは店主さんも知ってました。
帰省中に行くと唐津いづみさんがふらふら~っとルヌガンガに立ち寄っており、店主さんが「この方未来(結社)に所属しててものすごく短歌に詳しいんですよ!」と唐津さんを紹介してくれた。
唐津さんはその時恥ずかしそうであった
直後、うららがバックからカミーユとヘクタールを出したとたんしっぽをフリフリした子犬みたいに近づいてきて楽しかった
そんなこんなでうららは唐津さんと出会って1時間半ぐらい短歌のお喋りをしました。普段うららが話す人の年齢層よりかなり年上で、新鮮な話題が多くすごく楽しかったです。お話してくれてありがとう!とうららは思いました
コーヒーフロート奢ってくれてありがとね!
次の機会にルヌガンガに行くと唐津さんからプレゼントがありますよ、と店主さんから言われ3冊「銀耳」「彗星日記」「未来」を頂きました。こんなに良くして貰って本当にありがとうございます。人との出会いを大切にしたいです。
(この件もあってかうららは最近お世話になった文学少女に「ヘクタール」をプレゼントした)
そして彗星日記より抜粋するのが今回の唐津いづみさんの作品
ぐうぜんを生きているのよこの街で(オム・マニ・ペメ・フム)風が聞こえる
うららはこの短歌がめちゃくちゃ綺麗だと思ったし、忖度抜きで好きなのでいっぱい話したいと思います。
さぁて、どこからメスを入れてやろうかな🧀
一読してまず、面白いなと思う、筆者の言いたい事の9割ぐらいが伝わってきて、それと同時に見たことも無い型の短歌に単純に面白いと思う。(オム・マニ・ペメ・フム)とはなんなのか…
ぐうぜんを生きているのよこの街で
自分をこの街に、あるいはこの街に流れる風や音に任せているような言い回しが、ゆるい口語と、ひらがなと漢字のバランスから伝わってくる。自分のリズムで生きていける主体がゆっくりとゆっくりと立ち上がってくるのだ。
(オム・マニ・ペメ・フム)風が聞こえる
言うなればかぜの魂のようなものでしょうか。妖精と言ってしまうと少し雑で、妙なコンテクストが絡んできそうなのでここではうららはたましいと捉えますね。
風とは本来聞くものでは無いし、(風の音なら分かるけども)ここの表現に少し感覚的な捻れがある。「風」に対して聴覚で反応してしまうような優れた感受性を最後に提示することで(オム・マニ・ペメ・フム)の正体が「風」あるいは「風にまつわるもの」と分かります。(重ねて言いますがここでは風のたましいと解釈しました)
風に名前を付ける、風の一つ一つに出会いを感じる、嬉しく思う、自分の周りにある自然物に自分を任せっきりになる、そんなことができるのでしょうか→分からない
ただ、美しいなと思いました。この感性に。
上の句から下の句へのリズムと内容の移し方のレベルが非常に高く、完成度の高い歌だと思いました。
エモの共有可能性について
エモいはうける
Twitterを中心としてあらゆる媒体で拡散し続けられる
その結果として、エモのレベルに関わらず反射的にエモは拡散されつづけ読み手の意識をどんどん単純化してしまってると思う。そして単純化されたエモだけが増え続け消費され、メインコンテンツとして認知される。
あなたのTwitterのいいねはどれくらいの価値があるのでしょう
読み手の能力がどんどん欠落している中で、その中心に渦巻いているのが共有可能なエモである
だからこそうららは共有不可能なエモについて考えざるを得ない
共有不可能なエモ
「個人的なエモ」 「高次元なエモ」
の2つ種類にあると思う。
「個人的なエモ」
余りにも個人的な感覚による感情の動き、読み手は理解できないがこの存在を認めざるを得ないのでしょう
「高次元なエモ」
我々が普段感じる感覚を研ぎ澄まして研ぎ澄ましてその先でしか見れない領域。これは一朝一夕で成立するようなものでは無い。読み手はこの感情をどこまで信頼できるのだろうか
今回の唐津いづみさんの短歌では「高次元なエモ」が属性として見られた。まだ、うららの感性じゃあ到達できない領域だな、とも思った。
単純なエモが拡散され消費される一方でこのような短歌は存在感を示しており、はっきりと評価しようと思いました。というか、エモが拡散されることに悩んでいたところでこの短歌を思い出してハッとさせられました。
オム・マニ・ペメ・フム
元気ですか?うららは元気です
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?