ハイデガーとアーレントとナチス


まずハイデガー『存在と時間』における自然について。
後年では「ピュシス」として、「ピュオマイ」という動詞に言及しつつその「生成」としての在り方が論じられ、
ほとんど「存在」と近い意味合いで論じられているように思える「自然」について、
『存在と時間』ではハイデガーはあまり「自然」に紙幅は割いていない。
しかしそこには複数の意味合いがあることは、「読み」はできなくても目を通したことはある人ならわかるだろう。

一つ。道具的に在るものとして。
「(前略)風は帆にはらむ追い風である。発見されている「環境世界」とともに出会うのは、
このような形で発見される「自然」なのである」
(『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、166頁)

二つ。いわゆる「眼前的に在るvorhanden-seinものとして」。
(これはフッサール『イデーン』の「手の届くところに在るもの」を指してるのだろうか)
「この用具的存在様相を無視して、自然そのものを、たんにそれの単純な客体性において発見し規定していくことも可能である」
(同上)

三つ。「けれどもかような自然発見の態度では、
「生きとし生けるものの営み」としての自然、われわれを畏怖させる自然、
風光としてわれわれの心をとらえる自然には、接することができない」
(同上)

三つめはまさに名詞的に解された「自然」ではなく、さしあたりその動的な在り方に着目しているとは言える「自然」について、
ハイデガーが意識していたことの証左である。それは好かれ悪しかれ現存在を襲う。好かれ、悪しかれ、である。
ここではいわゆる「近代的な自我」が見る「自然」、克服すべきものとして、あるいは手ごろな心地よいものへ「制御すkybernan」べきものとして、
「自然」を見ていないというように理解しうる。ただし当然ながらハイデガーのことだからそれは「ロマン主義的な」、
人間の個体の「内面の発露」のようなものではないだろうと、留保できるだろう。

さらにハイデガーは「しかしまた、自然も歴史的である」と言う(『存在と時間 下』、ちくま学芸文庫、333頁)。
それは「《自然史》というような言い方をするときのことではなくて、むしろ、風土、植民地、開発地として、
また、戦場や祭場としてである」(同上)。
オリガの『ポーリュシカポーレ』とかわかりやすいんじゃないか。
このあたりもハイデガーは色々と書いてるが、二度ほど「謎」という言葉を使い、
『存在と時間』では主題の制限上、あまり深入りしない旨が書かれている(上掲書、334頁)。
紙幅において後年よりはるかに少ない『存在と時間』ですら、「自然」はシンプルではない。

さらにハイデガーは「ナチスを支持」していたと言われる時期から、
ナチスによるニーチェ解釈に抗していたり、その生物学主義的人種規定を批判し、
『学長演説』では生物学主義に回収されえない、そしてナチスの方針にはもともと無い、
「存在への思惟」へ向かう精神を前面に出したりしている。
事態(Sache)は複雑だ。
ユダヤ人のアーレントなんかは映画でも描かれていたように、数多のユダヤ人から、ハンス・ヨナスのような有名人からも裏切者扱いされたぐらいである。
もっとも、アーレントはユダヤ人虐殺にユダヤ人にも協力者がいたなどと報告したのだから、
真偽を問わずナチスを断罪すべき、生き残りは一致団結すべきとする立場からしたら、裏切者なんだろう。
エリザベート・バダンテールが『迷走フェミニズム』で男だけではなく女のナチ党員もそれなりにいたと報告してたりするように
(女の加害者がいたことの報告は敬遠されたらしいという話すらある)、
単純な被害側-加害側の区別なんぞ、歴史的事態に存在しうるのか。

プラトンが『第七書簡』(『世界の名著 プラトン』所収)でも言っていたように、
書き言葉は後世から叩かれる材料になるものだ。
死人に口なし、有名税と言ったところか。さしずめアーレントは「名誉ドイツ人」といったところか。
「ドイツ人」にもいろんな人がいただろうけど。

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