エポケーについてだらだら

「したがって、つぎのように思い込むのは、一つの原理的誤謬である。
すなわち、知覚は事物そのものに近づくことはない(そして知覚とは別種の事物直観もどれもみな、それぞれの仕方で、結局近づけない)のだ、と」
(フッサール『イデーン 1-1』、渡辺二郎 訳、みすず書房、185頁)

フッサールは『イデーン』で、現象学的なエポケーとデカルトの懐疑とを区別する。
みすず書房の『イデーン 1-1』、134頁あたりからの話を紹介する。
懐疑では「なんらかの存在」を懐疑する。これは本当に存在するのか、これは本当に生きて在るのか、と。
或る存在者が存在すること、あるいは、或る存在者がしかじかの仕方で在るのかということを、懐疑している。
このような懐疑のとき、「これが存在する」という定立は、「停止させられている」。
フッサールはここに焦点を当てている。
「この判断中止は、真理ついての揺るぎない、場合によっては揺るぎえない確信、
というのはそれが明証的な確信だからなのだが、そうした確信とも調和するようなものなのである」
(上掲書、138頁)
と言われるように、エポケーはそれ自体としては否定や肯定のためのものではない。

以上でいったん簡単な紹介を終えておく。以下はちょこちょこ読んだ私の考えである。
もちろんエポケーのさいも私は生活しているし、フッサールもそうだ。
そうでなければエポケーしながらそのさいの思考過程や成果を書き留めることはできないだろう。
フッサールはそのときペンや紙を懐疑していないし、主題化していないから、ペンや紙を「無視」して書き留めることができる。
現象学的エポケーはソフィストや懐疑者のような懐疑ではないわけだ。

そしてこのように普段の生活では意識されていない、主題化されていないことを主題化して考えることは、一種のひきこもりである。
通常の生活は、とくに昆虫に顕著なように、いわば「環境」に「埋め込まれてある」。
このような「埋め込まれ」は認知科学で「4E」と呼ばれているものに含まれており、
人間と動物とAIあるいは機械学習との連関を考えるにあたり重要なものだが、とりあえずそれはいい。
このような「ひきこもり」あるいは生活からの或る種の離脱は、「生活」にとっても、善かれ悪しかれ効果がある。
いくらかの人にわかりやすい例なら『ハンターハンター』のネテロの修行か。
あるいは『ツァラトゥストラ』のツァラトゥストラがもともと山に籠っていたこと、
そしてその成果が作中で人々に様々な影響を与えたことを思い出してもよいだろう。
「生活」からの離脱先での成果は、「生活」に新しいものをもちこみうる。
そしてエポケーを私は「ひきこもり」といったが、それは活発なだけで身内で固まっている在り方とも異なり、
「遠く」へのコミュニケイトの端緒であるわけだ。
ハイデガーの『存在と時間』でも、現存在が真に自己を批判する可能性について述べられている。
それまでの(優れたものであれ劣ったものであれ)成果というものを、つまり「過去」を相対化し、
「自己を放棄」することの可能性が(『存在と時間』に倫理はないとかふざけた話だと思う)。
ハイデガーがニーチェを『存在と時間』の段階ですでにかなり意識しているっぽいことは、
『ツァラトゥストラ』後半で意志について論じられているところ、
「かくあった、それが意志の切歯扼腕である」(上掲書、世界の名著版)といったところとか、
そういったところを覚えているだけでも思いつく。
それらは結局、<開始>を、<始まり>を、アルケーを問うているわけだ。

私はエポケーが個別の他人への理解に役立つとか、円滑な「コミュニケーション」に役立つとか、そんな話はしていない。

正気か?