『存在と時間』メモ

以前に書いたのが残っているのに気づいたので一部を投稿。粗いところもあるが、働きながらでも(私なら)こんぐらいできる。そりゃ小さい頃よりは時間はないしそれなりに工夫と努力はいるが。
ソシャゲやら動画視聴やらで時間を潰してるのに「働いてると読書時間が〜」と泣き言を言う馬鹿な人はいないだろうが、働きながらでもこんぐらいは、2か月はいってないよな、1か月ありゃ書ける(読める)よと、いち事例として。原著はニーマイヤー版。


論文だの入門書だの解説書だのは無視。
[『存在と時間』]を、『存在と時間』と私の経験や思考やなんやを頼りに読む。

「意志はすなわち力への意志である。こういう意志はあらゆる和解よりも高いものを欲しなければならぬ。ーーしかし、どうして意志がそれをするようになるだろうか。意志に、過去へ遡って意欲することをも教える者は誰だろうか」([ニーチェ][『ツァラトゥストラはかく語りき』]、世界の名著、226頁)

「本来的な自己存在とは、世間から離脱した主観の例外的状態に宿るものではなく、一つの本質的な実存範疇としての世間を実存的に変容することなのである。してみれば、本来的に実存する自己の自同性は、多様な体験のなかで存続する自我の同一性からは、ひとつの深淵によって隔てられているわけである」(『存在と時間 上』、細谷、ちくま学芸文庫、283〜284頁)(" Sein und Zeit" 130頁)
原文だと「変容」はmodifikationであり、「変容すること」と和訳してよいかは判断がつかない。「世間が実存的に変容(したところのもの」「世間の実存的変容」でも、この箇所を見るかぎりはかまわないんだから。
しかしこの箇所は、「本来性と非本来性(そして/あるいは無差別相)」にまつわる話についての手がかりである。
たいていは、[ハイデガー]の「[本来的実存]」は、不安とか何かで「自己」が「世間」から脱却して「本当の己自身」として物事に向かうみたいな話で片づけられたりしている。このような理解だと、
・現存在はその実存範疇からして頽落して在るものなんだろうに、そこから脱却するとはどういうことなのか
・現存在はひとたび「本来的実存」になればそのあとずっと「本来的実存」なのか。そうではないならば、変わらない「本来的自己」みたいなものがあって、「本来的実存」だか「本来的自己」に「なる」ということは、「本来的実存・自己」という、いつからかすでにあったそれに帰ることなのか。
この2点の疑問がありうるわけだが、ハイデガーによれば、そういう疑問が前提とする古式ゆかしい「自我・自己」から「本来的実存」は隔てられている。
この箇所に近しい表現は上掲書380頁(SZ179)にある。「本来的実存というのも、頽落する日常性の頭上に浮かんでいるものではなく、実存論的には、この日常性の変様的掌握にほかならないのである」。
ここでの「変様的掌握」は「ein modifiziertes Ergreifen」である。まず、冠詞が「ein(英語でいうaまたはan)」であることから、「変様した把握」がたとえばただ一度きりのそれ(theを冠するもの)ではないとわかる。そして「変様する」という動詞が過去分詞になってるところから、「変様的」は「変様した」とでもなる。最後に「掌握」は、ergreifenという動詞がそのまま名詞になっていることから、「掌握・把握」といった形でよいだろう。
しかし「本来的実存」とは「頽落してある日常性に関する変様された把握である」とはいかなることか。「実存」を「個人」のように読み、実存主義をロマン主義か何かのように読む解釈に依拠するかぎり、ここは素通りして忘れさるしかないだろう。せいぜい「自分の考えをハッキリと出す」とかぐらいにしかならないのではないか。

「この孤独化は現存在をそれの頽落から連れもどし、そして本来性と非本来性とを現存在の存在の可能性としてあらわにする」(上掲書401頁、SZ191)
不安またはそれがもたらす孤独化ーーちなみにこの孤独化はあくまでも「世界-内-存在として孤独化する」のであることに注意ーーは、「世界」および公開的な既存の解釈からおのれを了解する可能性を現存在から奪いさる。つまりは新たなる開始の条件として、始まり(アルケー)の条件として、不安は持ちだされている。
「この孤独化は現存在をそれの頽落から連れもどす」とは言われるが、ここではどこへ連れもどすかとは明言されていない。どこへ該当箇所としては、「現存在がそれを案じて不安を抱いているところのものへーーすなわち、おのれの本来的な世界-内-存在-可能へ」である(上掲書396頁、SZ187)。
この「おのれの本来的な世界-内-存在-可能」というものが、初めから自分でわかっていれば苦労はしない。「これが私のやり方」みたいなんで居直ればいいだけの話だから。今はまだ見つけられていないだけの「本当の自分」みたいなものも関係ない。不安や孤独化は、非本来的な、既存の解釈や処世術やなんやなど「過去」に依拠した在り方を相対化するものとしてある。それを不安は無意義化するものとしてある。それは、具体的にどういうものか思いつけもしない、あるのかどうかもわからない何かの可能性が己に到来することへ、そうした可能性(〈未来〉)が到来するための行動へ現存在を駆り立てうるものとしてある。[レヴィナス]といったいどこが違うんだろう。

本来性と非本来性という可能性を現存在にあらわにするという事態は、それ自体「本来的実存」なのか。それら2種類の(諸々の)可能性があらわにされるそのとき、現存在は「本来的」なのか「非本来的」なのか。
本来的実存または自己「になる」ということがありうるならば、その「なる」ということには、そのつど同じ本来的実存または自己になるということなのか。
このあたり詰めていけたらいいな。
さしあたり、「本来性」は「空虚な理念」としてある、という解釈をとるほうがよいように思う。この「空虚な」とは「形式的な」といったもん。俗に言う「無駄な」みたいな空虚さとは別。このあたりは良心という呼び声が告示するものが「無内容」であるみたいな話と繋がりうる。

ハイデガーが死を持ちだすのは、「現存在の存在の解釈を、存在論の根本的問題の開発の基礎とするにふさわしく、根源的な解釈にしようとするならば、われわれはまず現存在の存在をその可能的な本来性と全体性とにおいて実存論的に照明しておかなくてはならない」からである(『下』、25頁から26頁)。そしてすぐあとに、「良心」が、「本来的な存在可能の証を立てるもの」として持ち出される(上掲書27頁)。
このように、「良心」も「死」も現存在の本来的な存在可能などの存在論的な問題に関する解釈のために持ちだされているのであって、死を論じてるから暗いとか、死を思うから今が大事に思えるとか、そういうのとは一切、関係ない。後者についてはハイデガーもそうではないと明言している。

死へ臨んである存在は可能性のなかへの先駆となるとき、はじめてこの可能性(すべて不可能になることの可能性)を可能にし、これを可能性として発揮するものなのである(『下』85頁)。
「先駆は、おのれの最も極端な可能性が自己放棄であることを実存に開示し、このようにして、ひとがそのつど達成した実存へのいかなる固執をも打ちくだく」(上掲書、88頁)
このあたりの箇所は倫理あるいは倫理学にとって重要だと私は見なしている。
日常の様々な場面で見かける「倫理的な」振る舞いは、その人に金銭なり容姿なり恵まれた環境なりがあったからにすぎないのではないか。それらが脅かされようとするや、人は「倫理的な」振る舞いや言辞なんて放り投げ、いわゆる「自己保身」に躊躇なく着手するのではないか。また、人間がそのような仕方で「自己保身」を選ぶものだという一般的な判断を「前提にして存在する」ことは、人間に対する、人間の行為に対する解釈へも影響を及ぼすものだ。「倫理とかそういうのはファッションみたいなもんだ」など。
しかし、人間が、むしろ私が、原理的に、「そのつど達成した実存へのいかなる固執をも打ちくだく」ものでありうるなら、それは倫理が可能であることを示唆する。なんでもかんでも「環境からの影響」という空虚な流言で事は片づかないわけだ。

「本来的に自己であることは、この世間(的自己)の実存的変様として規定される。この実存的変様を実存論的に画定することが、これからの課題なのである(上掲書、96頁)。
ここから「良心の声」の話になる。

「世間的=自己への呼びかけは、ひとごとでない各人の自己をその存在可能へ呼び起こすことを意味し、しかも現存在としてのーーすなわち配慮的な世界=内=存在として、かつほかの人々との共同存在としてのーー存在可能へ呼び起こすことを意味している。したがって、この呼び声が何へ向かって呼び起こすのかを実存論的に解釈しようとするときに、われわれはこのことの方法的な可能性と課題とを正しく理解しているかぎり、個々の具体的な実存可能態の画定を目指すことはできない。そのつどの現存在において当の現存在にそのつどなにが実存的に呼びかけられているのかは、理論的に固定することができないし、またそれは固定さるべきものではない」(『下』、121頁)
このあたりは、言及されなくなって久しい世界性や有意義性に関して述べられていた記述とリンクしている。有意義性の連関は関数化に抗う、という箇所だ(『上』、201頁から202頁)。
そしてハイデガーは、良心と負い目、とくに負い目がもつ無性(Nichtigkeit)に着目する。

「被投性は、いつか「事実」として現存在の身の上に突発したがやがて現存在から離れ落ちてしまった事件として、現存在にとって過去になってしまったわけではない。そうではなくて、現存在はーー存在しているあいだはーー関心として、おのれの被投的事実をたえず存在しているのである」(『下』130頁から131頁)。
現存在は、いかなる気分をも自分で作り出すことはでき〈ない〉。「気分転換」もまた、或る気分にもとづいた、そしてそれとは異なる気分への「転換」にすぎない。「気分を制するにつけても気分なしにできることではなく、いつもその反対気分によって制するのである」(『上』、297頁)。気分を制するという現存在の「意志」や「主観」は気分に遅れている。
そして投企はつねに被投的投企であるからそれもまた無性に規定されているというだけでなく、投企は他のあらゆる仕方での投企と一緒に為すことはでき〈ない〉ため、無的である。
「関心そのものが、その本質において、底の底まで無性に浸透されている」(『下』、133頁)。
こうした無性が、「いま手元に道具がない」といった「ない」とは別種のものであることを、ハイデガーはこのあたりで繰り返し強調する。実際、ハンマーが壊れたり道具箱に無かったりしたら別のハンマーやハンマーの代わりになるもの(レンガとか)を用いればよいだけだ。
「不在のものーーただ「手頃でない」だけでなく、そもそも「手元にない」ものーーに気がつくこともある。そしてこのような不在の発見も、やはり、用に具わっていないものに気づくことであるから、用具的存在者を或る意味でたんなる客体的存在において発見することになる」(『上』、172頁)。
「あるべきものが目前に実在していないという意味での欠け目は、客体的存在者の存在規定の一つである」(『下』、128頁)。
そうした客体的存在者の存在規定は、現存在の存在の意味としての関心や、それと連なる被投性や投企などには相応しくない規定である。
被投性の無性は、つねに現存在の傍ら(para)に「ある」。傍らにあるからと言ってそれが現存在自身にとって「近い」わけではないのは、手元存在の本領としての「目立たない、催促がましくない、煩わしくない」(『上』、176頁)や、個々の道具に先立つ全体性を思えば、すんなりわかるだろう。新品のゴワゴワしたグローブが手に馴染んできたとき、或る道具が手元的に在れば在るほど、そのグローブを私が着けていること自体が私からは「遠く」なる。

「むしろ覚悟性とは、用具的なものごとに従事するそのつどの配慮的な存在のなかへ自己を引き入れ、ほかの人々との待遇的な共同存在のなかへ自己を突き入れるものなのである」(『下』、158頁)。
「各自が覚悟性において本来的に自己であることによって、はじめて本来的な相互存在が発源する」(『下』、159頁)
「現存在はこれまですでに無覚悟性のなかに居たし、そしておそらくはやがてまた無覚悟性にかえるであろう」(『下』、160頁)
このあたりでハイデガーは、覚悟性はなにも「行動」のみに関わるのではないとしている。「覚悟性の決断によってはじめて事実的に可能なものごとを発見し、しかもこれを世間におけるひとごとでない存在可能として可能であるような形で、掌握するのである」(161頁)。「世間における、ひとごとではない存在可能」。あくまでも現存在は世界-内-存在であり、覚悟性(Ent-schlossenheit・閉鎖解除性(芦田宏直 訳))は状況を現存在に開示する。
この決意性というものは「これ言おうかな、言わないほうがいいかな、ままよ、言っちゃえ」みたいな決意とも違うということだ。

しかし、それより、現存在は本来的に在ることから非本来的に在ることへも「変化」しうる。不安、良心の呼び声、それらが現存在を本来的にしうる(現存在は根本的に不安であるためそれが可能になっている)けれども、本来性から非本来性へという「変化」にはどういったことが関わるのか。
まさしく、現存在が世界-内-存在であるがゆえに、現存在は本来性から非本来性に帰りうるんだろうと思う。やっぱりそう書いてた。ハイデガーはいつも私を先回りしてるかのようだ(何回か読んでんだからそりゃそうだが)。
「先駆的に覚悟せる現存在は、この常住に可能な自己喪失態へもおのれを開放しておく」(『下』、178頁)。
ここまでの話から当然、こうなる。

「決断の確承( Die Gewissheit des Entschlusses)はつぎのことを意味する。可能的な撤回のために、そしてそのつどの事実的な不可避の撤回のために、自己を開放してあるということ」(SZ307から308)
細谷の和訳に我慢ならなくなってしまったので自分で和訳した。つーか、私が持ってるニーマイヤー版(2006)では、細谷による「このような態度で《真として堅持すること》が属している」(『下』、177頁)という和訳に該当する文が存在していない。
「なにがこのような態度で、だ。ハイデガーは《気構え》とか《生活態度》とかそういうのと覚悟性を区別していたのに(『下』、163頁)、なんでここでこんな形で「態度」なんて和訳が出てくるんだ。うさんくさい」って感じで確認してわかった。色んな版を参照したとのことだが、どうなんだろな。細谷訳はどうも気色が悪い。
細谷訳の気色の悪さはどうでもよいとして、ここで言う撤回(Zuruecknahme。ちなみに「退転」はZurueckvallenだがこれはVerfallenとの連関を示唆してるんだろう)とは、いったいどういうことか。
とは言ったものの、そのまえに、
「このように覚悟的におのれを開放して撤回を辞しないという態度で《真として堅持する》ことこそ、とりもなおさず、おのれ自身の反復への本来的な可能性なのである」(『下』、177)。
細谷はこんなふうに和訳しているが、
「dieses Fuer-wahr-halten als entschlossenes Sich-frei-halten fuer die Zuruecknahme ist die eigentliche Entschlossenheit zur Wiederholung ihrer selbst」(SZ308)
「撤回のため閉鎖解除的に自らを開放してあることとしての、(己を)開示的に在ると見ること、それは閉鎖解除性それ自体の反復に関わる本来的な閉鎖解除性である」
これがニーマイヤー版(2006)での該当箇所と、さしあたりの拙い和訳だ。「真として堅持する」って和訳じゃあなにを真として堅持するのかわからない。この「真(wahr)」は真理にまつわる話が出てくる第44節(『上』、443頁から)あたり、第一次的真理としての現存在あたりの話を汲まないと、ハイデガーが批判する真理概念をこの「Fuer-wahr-halten」の理解に援用される恐れがある。また、第44節を汲むべき理由は、「実存の真理性としての覚悟性」(『下』、177頁)という箇所だ。「もっとも本来的な開示態は、実存の真理性である」(『上』、459頁)のであり、ここでその「実存の真理性」としての「閉鎖解除性」が話題に上がってるんだから、「-wahr-」にはその意を込めなければならない。「状況」が与えられる、示される、そのつどの「状況」を「発見する」みたいな話のなかでこの「wahr」は出て来ているんだから、なおさらだ。
ちなみに、「辞しないという態度で」なんて箇所はニーマイヤー版(2006)には存在していない。細谷が使ったどの版でそんな箇所があったのか、それとも細谷によるつけ足しなのか、判断がつかない。そこが気持ち悪いな。

余談をようやくわきに置ける。この「撤回」とはいったいなんなのか。
ハイデガーは『下』177頁(SZ307)の、「撤回(Zuruecknahme)」を持ちだす前の箇所で、覚悟性によって開示される状況について述べつつ、「覚悟性に相応しい確承」は「決断によって開示された事柄の内で持ち堪える確承」だと言う。そして、そういう確承は「むしろその状況に固執することができない」と言う。つまりは自分が非本来性へ至る可能性へもまた開かれていなければならない、ということだ。
この箇所で「撤回」は「無覚悟性への退転(Zurueckvallen)」からは区別されているのだから、いわゆる前言撤回みたいなのとは違う(無関係とまでは言わないが誠実なる前言撤回は閉鎖解除的で在ることに依拠するだろう)。閉鎖解除性を反復することへも現存在は開かれてあるということは、たとえば、自らの判断の「価値」なり「位置づけ」なりをあらためて無意義化する更なる閉鎖解除性へも、現存在は自らを開いておくということだ。ちょうどニーチェの〈子ども〉のように(『ツァラトゥストラはかく語りき』参照)。それが可能なのは、追い越すことのできない(過去になりえない)ものとしての死のためである。現存在にとっての死は現存在による何事かの(再)開始の原理である、とでもなるだろう。

「われわれは、本来的な全体存在可能の存在論的投企によって、覚悟性の現象からは遠くかけ離れた現存在の辺境へ走っていってしまったのではないか。死は、行動の《具体的状況》と、いったいどういう関わりがあるというのであろうか」(『下』、166頁)。
この箇所は明らかに、死(への先駆)と「日常的な」行動との関係を念頭に置いている。現存在はつねにすでに、たとえ非本来的にであっても、死という最大の無性(それはつねにすでに未だ無い)によって規定されている。そうであるなら、死への先駆とかそういうのを死に際だとか何か大きな災害が起きたときとかそういう「特殊な」場合に限るのはおかしなことだ。
たとえば、起床する、そういったところに死への先駆は関わり得ないと、いったいどうやったら言えるだろう。たしかになんとはなしに起きるということは可能だが。

「しかし、ここで現存在の実存についておこなってきた存在論的解釈の背後には、本来的実存についての特定の存在的な見方、現存在の事実的な理想が控えているのではあるまいか。たしかに、そのとおりである。我々はこの事実を否認してはならないし、やむをえず白状するというのであってもならない。それだけでなく、われわれはこの考究の主題的対象にもとづいて、この事実のもつ積極的な必然性を理解しなくてはならない」(『下』、182頁)
ハイデガーは繰り返し、「頽落して在ることを貶してはいない」「先駆は外から現存在に押しつけられた架空の可能性ではない」みたいなことを書いているが、この箇所を見るとどういうことなのかと戸惑ったり、あるいは喜んだりすることもありうる。
当然ながら、この箇所によってハイデガーによる論述が、人間に関する、ハイデガーによるいち理想像の提示にすぎない、みたいなものになることはない。

正気か?