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【短編小説】目白

 一つの嘘が私と有紀子の仲を引き裂いた。八年も前のことのようだが、まさかそれが今生の別れになるとは思いもしなかった。少なからぬ驚きと悲哀が胸をついたが、私はとっくに彼女のことを忘れていたし、友人からその死の知らせを受け取った時も、初めに浮んだのは、はて、この男は有紀子のことを知っていたのかしらという考えそれだけだった。
「そう、死んだの」
「うん」
 彼は深刻そうに頷く。私と彼女の当時の関係性までも知っているかどうか、判断しかねて当たり障りのない質問をする。
「どうして?戦争?」
「いや、死んだのはつい最近のはずだから、多分何か、病気でもしていたんだろう」
「そう」
 それ以上彼と話すこともなく、私は彼女と過ごした日々を思い出すことにした。そこで真っ先に聞こえてきたのは彼女が最後に言いはなった言葉、
「酷いことをおっしゃるのね」
 瞬間、当時の罪悪が八年の年月の重みを付してあらわれ、頭をもたげた。
「葬式は、もう終わったのかな」
「終わったさ。とっくに」
 私はまた有紀子と共にいた日々を思い出そうとした。が、それは交際した五年間のどの断面を切り取っても、漠然としたセピア色の静止画に過ぎない。朝もやに浮かぶ市の隙間を一緒に歩く姿、川べりに寝ころぶ私の目に空とともに映る彼女、山々を望み寄り添う二人、それぞれが懐古を誘う断片であるが、どこにも音や動きはなく、それを必死に見出そうとすれば飛び込むのは、
「酷いことをおっしゃるのね」
 を吐き出す、彼女のセピア色の唇。動くのはあの艶めかしさのない、それでいて無機質ではない、気品ある唇だけで、そしてまた私の後頭部の辺りに重くのしかかるのは灰色の後ろめたさだ。
 彼女が、
「酷いことをおっしゃるのね」
 という言葉を残して去っていったのは、私がついた嘘のためだったはずだ。少なくとも、私はそう記憶している。それはおそらく、彼女と別れるためにつかれた嘘であった。どうしても彼女との関係を断ち切らなければならない、進退のきわまった私が懸命に頭を働かせて編み出した嘘。私はその嘘の内容を思い出そうとするが、不思議と頭に浮かばない。細かな部分だけでなく、大枠からしてすっぽりと記憶の領域から抜け落ちている。頭の引き出しにしまわれていたセピア色の水面は波音一つ立てず、そこで鮮烈に放たれる有紀子の、
「酷いことをおっしゃるのね」
 静止する空間の中、異物としてある有紀子の唇が、その言葉を繰り返す。私は嘘をつかないままに有紀子と何度も別れる。ただただ一方的に、有紀子に糾弾されたまま、置いて行かれる私。因果のない、あまりに唐突な別れの宣告に心は耐え難い。せめて、嘘くらいつかせてほしいと願うが、過去に埋没した私の嘘は顔を出すことなく、ぶくぶくと沈み行く。
「酷いことをおっしゃるのね」
 だから、もう二度と会わないと思っていた女に死んでから会いに行くというのも奇妙な話であるが、背を押したのは嘘をついた罪悪よりも、その罪悪の所在を確かめたいという思いにあったのかもしれない。

 静かな、濃緑の山のふもとに有紀子の家がある。彼女の実家については、訪れたことがないどころか、話を聞いたこともなかった。聞いていたとしても、忘れていた。
 まばらな人家をつなぐ黄土色の道で畑を縫いながら、青天に汗をかき、たどり着いたのが山を背に広がる平屋建て、手巾で頬を拭い、不用心に開け放された引き戸の外から、
「ごめん下さい」
 と乾いた薄闇に言葉を投げる。すると、
「はあい」
 の明るい声がかすかに届く。その後の静寂の中で、私は左手に広がる庭を眺めた。よく整理された草木模様は清潔で、その中に、一本の華奢な梅の木がけな気に伸び、枝先にとまる鳥が鳴くと、それを合図にしたように、玄関の奥先からどたどたと無遠慮な足跡が響いて、若い女が顔をのぞかせた。化粧っ気のない、日にやけた肌が目にやさしい。きっと、有紀子の妹だろう。
「はい。何でしょう」
 私は軽く礼をして、
「お忙しいところ突然すみません、私、有紀子さんと仲良くさせていただいたもので、亡くなったと知らなかったものですから、今更ですが、お線香でもあげさせていただこうと思いまして」
 言ってから、どうも筋が通っていないんじゃないかと思ったが、相手の方はあっけらかんと、
「はいはい、どうぞお上がりください」
 拍子抜けしたまま、改めて礼をして、敷居をまたいだ。
 仏壇の中に置かれた笑顔はセピア色の中に埋め込まれていて、私の知っている有紀子そのままだった。ろうそくに灯る火に線香を近づける。一本の硬い線の先がぽっと燃え上がり、それが消えて、香るけむりに包まれながら、優しい橙が広がっていく。香炉に突き刺して、リンを一度、二度、打つ。両掌を合わせて目をつむれば、暗闇の中にぽっと浮き上がるのはセピア色の有紀子、そして動く唇、
「酷いことをおっしゃるのね」
 違う、これではない。私は頭を振って、別の有紀子を呼び起こす。だが、相変わらず有紀子はどの景色の中にあっても動くことなく、全てのセピア色の記憶で、笑顔の有紀子、眉をひそめる有紀子、怒った有紀子、ありとあらゆる有紀子が唇だけ開かせて、
「酷いことをおっしゃるのね」
 何人もの有紀子から糾弾を受けた私は、耐えきれずまぶたを開く。その先にいるのはやはりセピア色の、写真の中の有紀子だ。だが、その有紀子は唇を開かずに、ただひたすらに微笑んでいる。
「お茶、淹れましたんで」
 有紀子の妹が茶を運んできて、テーブルの上に置いた。私は彼女の方に向き直り、
「どうぞ、お気遣いなく」
 女はろうそくの火を消してから、盆を抱えたまま、畳の上に座り込んだ。その目はどこを見るでもない。
「……この度は、ご愁傷様です。お悔やみ申し上げます」
「え?ああ、はい。ありがとうございます」
 女は心ここにあらずという風に返事をして、また空(くう)を見つめ始めた。
 深紅の唇が、やけに大きい娘である。顔の他の部位はそれに吸い込まれるように位置している。おそらくは無意識に開けられた唇からは、暗闇を背景に、少し黄ばんだ前歯が覗く。この娘は有紀子とは似ていないな、そう思って有紀子を思い出そうとすればまたあの言葉を聞くことになるから、頭を振ってその想像を消し去って、出された茶に口をつけた。味の薄い、緑茶だった。
「お口に合いませんか?」
 有紀子の妹は唐突に言った。顔に出ていたかと慌てた私は、むせて胸を叩いた。女は「あらあら」と立ち上がって、背をさすってくれた。意外な優しさに少し心が和らいだ。
「どうもすみません」
 もう大丈夫だからと手で制して、姿勢を改める。女の方も素直に受け取って、また元の位置に戻った。
「やっぱり、薄かったかしら」
「え」
「お茶、淹れてる時にどうもこれは薄いんじゃないかしらと思ったんだけれど、そのままお出ししちゃって」
 薄かったのは確かだが、それが理由でむせたわけでもないし、飲めないという程でもなかったので私は平気な顔をつくろって、
「いえ、全く、薄くなどありません。ほら、この通り」
 と残っていた茶を一気に飲み干した。
「あら、よかったですわ」
 と女は特によかったとも思えない、無表情で見つめていた。出会った時から、彼女はずっと無表情である。何を考えているのか、何も考えていないのか、よく分からない女である。有紀子もこうだったろうか?いや、彼女はよく笑う女だった。単色の記憶の中の有紀子も、笑った有紀子が多い。あの、
「酷いことをおっしゃるのね」
 と言った、別れに際しても、有紀子はやはり笑っていた。少し眉をひそめた、無理な作り笑いであった。そして仏壇の方に目を向ければ、写真の中の有紀子も笑っている。
「……有紀子は、本当に死んでしまったのか?」
 思わず出た言葉は、この場に相応しいとは言えず、私はしまったと慌てて、
「あ、いえ、失礼しました、お姉さんが亡くなって辛いところを……」
 と女の方を向けば、彼女は目を丸くしていて、少しの間のあと、「ああ」と何か合点がいったように手を打って、
「あら、私、有紀子さんの妹じゃありませんのよ。従妹なんです。えっと、有紀子さんから言えば、お父さんの、妹の、娘なんです」
「え、あ、そうなんですか」
 私を見つめる女の顔は殊更有紀子に似ていなかった。初めから気付いていたことだ。だというのに、なぜ私は、彼女を有紀子の妹だと思いこんだのだろう?
「お葬式とかいろいろあったでしょう?その、お手伝いに来てるんです」
「どうも、失礼しました」
「いえ、別に構いませんのよ」
「……失礼ですが、お名前は」
「敏子です」
「敏子さん」
「そう言えば、あなたのお名前は?」
 そこで自分が名乗らずにいることに気付いた。私も私だが、そんな男を家に上げる敏子も軽はずみである。
「申し遅れました。館山吉次です」
「館山さん」
 となにか考え事をするように頭に手を当て、目は天井の方を見つめていたが、
「ごめんなさい。有紀子さんから聞いたことがあったような気もするのだけれど、覚えていなくって」
 とあまり申し訳なくもなさそうに言った。
「いえ、良いのです」
「本当にごめんなさい。お仕事は?」
「銀行に勤めています」
「どちらで?」
「東京で」
「あら凄い。東京って、やっぱり、凄いところなんでしょう?」
「さあ、どうでしょう。生まれも育ちも東京ですから」
「凄いわ」
「凄いということはありませんよ」
「でも、戦争は大変だったでしょう」
「幸い、自分の家は焼けずに済んで」
「それは良かった。この辺り、私の家はあの山の向こうなんですけど、そっちは全く空襲なんてものもなくて、何だか私たち、本当に戦争をやったのかしらって、そんな気がして、東京の人たちに悪いわなんて、家族でよく言っていますわ」
「そんなことはない」
 思わず強まった語気に、敏子は少したじろいだ。私は慌てて柔和な顔つきで、
「あ、いえ、決して悪くなどないと、ただそれだけです。悪いことなんて、一つもない」
 敏子は「そうですか」と呟いたあと、少し決まり悪そうに衣服の端をいじっていたが、すぐにまた無表情の顔を上げて、
「有紀子さんとは、東京でお知り合いになったの?」
「そうです。東京で、十年ほど前に」
 言ってから、もうそんなに経ったのかと驚いた。記憶の中で凝結したままの有紀子との時間も、感覚としてはつい昨日の出来事のようで、それはきっとその十年の大半に戦争があったからで、固定的で、流動性のない数年、それが私と有紀子の間に横たわっていた。とすれば、二人の仲を引き裂いたのも、長い間、そして一瞬間の、あの戦争ではなかったのか?
「もしかしてお付き合いしてらしたの?」
「え?」
 あけすけな質問に虚をつかれた、と言うよりも、犯罪を糾弾するような調子に思えて、つまりは有紀子との交際を疑われているような気がして、それと同時に自分は本当に有紀子と交際していたのだろうか、と自分自身でぎょっとした。私は有紀子と愛し合っていたことを事実として認識しているが、今私が思い浮かべる記憶の中の有紀子は相変わらず静止画のままで、そうとしか覚えていない有紀子との日々が彼女との日々の実在を証明してくれるものには思えず、何か嫌な汗をかき始めて、だからその時の、
「ええ、まあ……」
 という曖昧な返事は照れ隠しというよりも、単に確証が持てなかっただけであった。
 そんな私の心の内を知る由もなく、敏子は少し明るくなって、
「まあ!素敵だわ。東京で、男の人とお付き合いだなんて」
 と手を叩く。私は手巾を取り出し、額の汗をぬぐった。
「何も、特別なことではありませんよ」
「そんなことないわ。こんな辺鄙なところに住んでいる身からしたら、あこがれますのよ」
 と眺めている縁側の向こうの庭に目を向ければ、うららかな陽気の中に、遠慮がちに伸びる低木と、小さな灯籠、そして弱弱しく一本の梅の木が立っている。梅の枝の先に、小さな鳥が一羽とまって、首をかしげる。
「そうでしょうか。ここも、いいところでしょう」
「いいえ!こんなところにいたって、何も面白くないですわ。私も、有紀子さんみたいに、そのうち家を出ていくつもりですの」
「家を」
「ええ、父はいけないって言うんですけれど、私だってもう子供じゃありませんわ。自分のことくらい、自分で決めます。これからは、女だって、そういう時代なんでしょう?」
「ええ、きっと、そういう時代がくるでしょう」
「そうですよ。それなのに父は、昔の道徳を振りかざして、それはいけない、ってしかめ面で。年を取った方って、みんなそういうものなのかしら……東京でも?」
「いますよ、いくらでも、そういう方は」
「館山さんは?」
「私ですか?私は……そうですね、別に、いいんじゃないでしょうか、自由にやっても」
「でしょう!私、自由に生きたいんですわ。自由に働いて、自由に遊んで、自由に恋をしたいんですの」
「そのために、東京に?」
「ええ、東京には何でもあるでしょう?」
「どうでしょうね、今は、東京も大変ですよ。まだ復興も済んでないし、仕事を探すのだって……」
「私、こう見えて、体力には自信がありますの。そこらの殿方にも負けませんのよ。すぐに仕事も見つかります」
「はあ、そうまでして、東京は憧れますか」
「勿論!私も、有紀子さんみたいに東京の素敵な男性と会ったり、色々遊んでみたりするんです」
 目の前で軽薄さの手本のように有紀子が引き合いに出されるのはどうも不思議な気がした。有紀子はどちらかと言えば奥ゆかしい、それこそ、古い道徳をまとったような女ではなかったか?しかし考えてみれば、十も年の離れた、所帯を持つ男を彼女は愛していたのだった。そうと知りながら、敏子の口から出る言葉は思い出の中の有紀子を汚すようであり、手前勝手な憤りに胸がつかえ、それがまた自分自身への嫌悪につながり、無性に気分が悪かったから、少し話題を変えようと、
「その、彼女とは、仲が良かったんですか?」
「有紀子さん?ええ、まあ、特別仲がいいというわけでもないけれど、普通にお話したりしてましたわ」
 色々と聞きたいことがあったのだ。有紀子はどうして死んだのか。いつこの田舎に帰ってきたのか。そして何よりも、自分のことを何か話していなかったか。「酷いこと」を言った男のことを。
 敏子はついさっき自分の名を有紀子から聞いた覚えがないと言っていたが、何か思い出すこともあるかもしれない。私のついた嘘についても、聞いているかもしれない。
 もう有紀子との交際を敏子は知っているわけだし、おそらく今後この娘と出会うこともないだろうから、下手に体面も気にせず聞いてしまえばいいではないかと思いもするが、なかなか踏ん切りがつかないのは、やはり八年にわたる罪悪が尾を引いているからだろうか?
 しかし、そういう私の逡巡をあざ笑うかのように、
「ただ、最近はほとんど会いませんでしたわ。有紀子さんがこっちに帰ってきてから、お正月とか法事とか、そういう時に顔をあわせるくらい。最後に会ったのは今年のお正月のころでしたけれど、元気そうにしてらしたものだから、亡くなったと聞いた時は、本当に驚きましたわ」
 その驚きを想像しづらい無表情だった。
「私が有紀子さんとよく一緒にいたのは小さいころで、それからあの人、東京に出たのがたしか二十歳のころでしょう。私が十一の時で、それからは疎遠でしたわ」
「……そうですか」
 おそらく、敏子は本当に私のことを何も聞かされていないのだろう。それでも、ここで聞かなければずっと後悔するような気がして、遂には、
「その……何か、東京にいたころの話を聞いていませんか?」
 と問うと、敏子は珍しく眉をひそめて、
「それがあの人、東京のこと、何も話してくれないんですのよ。私が聞かせてくれってせがんでも、笑ってごまかずばかりで、他の人にも、東京の話は聞かせなかったみたいなんです。変わった人。だから、有紀子さんが東京で何してたかとか、何のお仕事をしてたかとか、どんな人と一緒だったかとか、誰も知らないんです」
 落胆に思わずうつむいた。私のついた嘘は、有紀子の死とともに、過去という渦の中にのまれ、二度と顔を出すことがないだろう。私は在り処を知らぬままに、漠然とした罪悪に苦しめられ続けるのだろうか?
「でも、たとえ聞いていたとして、信じられるかどうかはあやしいものですけれど。ほら、有紀子さんって、嘘つきだったでしょう?」
「嘘?」
 私は素っ頓狂な声で、思わず顔を上げた。敏子は少し驚いたような表情になって、
「ええ、有紀子さん、よく、嘘をつかれたでしょう」
「……いえ、あまり」
「あら。変だわ」
 と口に手を当てる。私は思わず乗り出して、
「彼女は、嘘つきだったんですか」
「ええ、私、小さいころからよく嘘をつかれて、ひどい目にあうこともありましたわ」
「どんな」
「え?」
「どんな嘘で、どんなひどい目に」
「さあ、それは覚えていませんわ。いちいち人がついた嘘を覚えてもいられませんもの」
「……そうですか」
 敏子は考え込むような素振りを見せた。
「変ですわね。あの有紀子さんが、嘘をつかないなんて。もしかしたら、あなた、ずっと嘘をつかれていたのかもしれませんわ。嘘を嘘と知らないままに、本当だと思いながら、有紀子さんとお付き合いしてたんじゃないかしら」
 本当に、今目の前の女が話しているのは、私の思い描く有紀子と同じ人間なのだろうか?私は有紀子に嘘をつかれた覚えなどないし、嘘をつくような女だったとも思えない。だが思い出してみれば、私の記憶の中の有紀子はセピア色の静止画でしかない。嘘つきかどうかなど顔で判断することもできず、その中で聞こえる彼女の声は全て、
「酷いことをおっしゃるのね」
 それだけで、だとすれば、その言葉が嘘だったろうか?私は、本当は「酷いこと」など言ってはいなくて、二人の仲を引き裂いた嘘というのは、有紀子の、
「酷いことをおっしゃるのね」
 の方であったのではないか?
 いや、しかし、今目の前にいるこの敏子という女、その名すら本当かどうか私には確かめようのない、曖昧な無表情ばかり見せる女の方こそが、嘘つきかもしれないではないか。この女が、有紀子のことを嫌っていて、彼女をおとしめるような、ひどく勝手な嘘をついているということもありうるはずだ。だとすれば、有紀子は嘘つきでなかったことになる。嘘をついたのは、やはり私ということになる。
 いや、それとも——。
 今目の前にいる女こそが、有紀子ではないか?
 しかし、そこにいるのは私の知る有紀子——セピア色の有紀子——とは似ても似つかない薄黒い横顔で、庭の方をぼんやりと眺める彼女は、聞こえてきた鳥の鳴き声に何か思いついた様子で、
「あら、あれは」
 と突然立ち上がり、縁側からじっと庭を眺めた。客人の前で、それも曲がりなりにも喪中に見せるには天真爛漫と思える態度に、有紀子の面影を見ることはできない。
「ほら、あそこ」
 と彼女は私の方をふり向きながら、庭を指さした。私も立ち上がって彼女の隣に立ち、その先を見れば、寂しく立つ梅の枝先に、一羽の鳥がいて、甲高い声で鳴いている。
「鶯ですか」
 とつぶやくと、女はぶんぶん首を横にふって、
「違いますわ。鶯じゃなくて、目白ですわ」
「目白?」
「ええ、目白です。鶯とよく間違えられるけれど、あれは、目白ですわ」
「しかし……」
「ほら、有紀子さんも、目白が好きって、よくおっしゃっていたでしょう」
 そんな細かい嗜好が、私の記憶の中の有紀子に当然あるはずもない。
「はあ、そうだったかもしれない」
「そうですよ。春になると、口ぐせみたいに、私は鶯よりも目白が好きって。ちっちゃくて、かわいいから」
 小さいのは鶯も同じでしょうという言葉を抑えた。今目の前の女が語るのは過去の有紀子の言葉であって、それは彼女自身の間違いではない。だからそれが有紀子の嘘であったとしても、敏子の嘘ではない。それとも、過去の誰かの嘘を語る口は、嘘つきの口であろうか?その口が、
「酷いことをおっしゃるのね」
 と言うのだろうか?
 しかし、敏子の口からは、鳥の鳴き真似が出た。
「どうです?有紀子さんよりも、上手でしょう」
 と得意げに空音を続ける彼女を、私はただ見ていた。

 東京に戻ってから二日後、偶然に、有紀子の死を知らせた男と会った。互いに仕事を終えた後だった私たちは場末の居酒屋に入って、静かに杯を傾けていた。
 既に酔いがまわり始めたころにふと思い出し、少し機嫌がよくなっていたせいもあるだろうが、つい有紀子の家を訪れたことを話した。
 すると相手は、眠そうな目をこすりながら、さも興味がなさそうに、
「ふうん……彼女、死んだのか」
 そのとぼけた調子に私は腹が立って、
「何だいその言い方は。死んだのかって、君が僕に知らせてくれたんだろう」
 と少し語気を荒げたが、
「僕が?……君に?」
 それが演技らしさのない自然な表情で、私の体に緊張が走った。
「……覚えてないのか?」
「覚えてるも何も、そもそも話してないよ」
「そんなはずは……君、一週間くらい前に、この近くの飲み屋で話していた時に、教えてくれたじゃないか!……そうか、酒が入ってたから、忘れたんだ」
「馬鹿言っちゃいけない。僕はいくら酔っても、言ったことやったことを忘れたりはしないよ。仮に忘れていたとして、僕はそもそも彼女が死んだなんて、知らなかったんだからね。教えようがないじゃないか」
「だが、しかし……」
「大体にして、僕は彼女のことをほとんど知らないんだから。ただ名前と、君が仲良くしていたということと、それだけだ。なんでその僕が、君よりも先に彼女の死を知らなくちゃならないんだい?死亡広告とにらめっこしているほど、暇じゃあないんだよ」
 苛立つ彼の態度はどこからどう見ても嘘つきのそれではなく、私はその話を切り上げる以外になかった。

 休日の午後、あたたかい日ざしの中に咲く庭の木花を眺めながら、縁側で呆けていた。そこに妻がやってきて、
「お茶、淹れましたよ」
「ありがとう」
 湯のみを受け取って口をつければ、ほどよい苦味があった。
「うん、うまい」
「そうですか」
 と盆を持ったまま、隣に座って、一緒に庭を眺めた。
「町子、今日は遅くなるって、言ってました」
「そう」
 娘の町子は、去年の暮から紡績工場に働きに出ていた。若くてたくましい少女は、親の知らないうちに、何をしているだろう。
「何だか、長閑ですね」
 と、妻がため息をつく。
「ああ、そうだね」
「何だか、長閑すぎて……まるで、あの戦争も、嘘だったかのようですわ」
 それに私ははっとして、
「まさか。馬鹿みたいなことを言うんじゃないよ」
 と叱りつけるように言ったから、妻も目を丸くして、「すみません」と頭を下げた。
 戦争はあった。私はそれを覚えている。
 その時、庭の方から鳥が高らかに鳴くのが聞こえて、決まり悪そうにしていた妻はやや大げさに明るくなった。
「あら、見てください。鶯ですよ」
 と指さす方を見れば、百日紅の枝先にぽつんととまる、小さい鳥。
「いや、あれは目白だよ」
 妻は不思議そうに私の顔を見つめ、
「目白?」
「ああ、目白だ。目白は、鶯とよく、間違えられるからね」
「ですけど、鳴き声が……」
「目白だ」
 言い切る私に反駁するでもなく、妻はそうですかと言うと、立ち上がって離れた。
 鳴き真似をしてみると、それに呼応するかのように、庭で、鳥がまた、朗らかに鳴いた。
 春である。

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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