見出し画像

苦しさに向き合え、わたし

小学生の頃から自然が大好きで、木々の緑と空の青と揺れる風の音だけに囲まれていつも生きていたいと考えていた。
そう思わせたのは、子どものころ毎年真夏に訪れていた、素朴な農村地域にある祖父母の家での思い出だった。

コンクリートだらけの首都高を抜けて、両親が運転する車でもうひと眠りすれば、徐々に道路の幅が広くなり、空が開けて、道行く車がまばらになる。
そして、遠くに山が見え始め、田んぼの脇の細いあぜ道を抜ければ、祖父母が住む広い庭の平屋にたどり着く。
庭の入り口には祖母が大事にしているお花がお行儀よく揺れていて、その奥にある畑から、ネックカバー付きの帽子をかぶった祖母が野菜を抱えて嬉しそうに出てくる。田んぼを見に行っていた祖父が、買って帰ってきたアイスを照れ臭そうに渡してくる。
広い庭では、低く刈り揃えられた芝と青空を背に洗濯物がなびいて、蝉が鳴きしきる。祖父が毎日水やりをしている松の木が、その真ん中に大きく静かに立っている。
私にとって、夏とはこの景色だった。

この景色を守るために、大学では環境に関する学問を専攻し、その知識を実社会の課題に反映できそうな職についた。
でも、自分が思い描いていた将来図とは裏腹に、今は忙しさに追われて、深めきれなかった浅い専門知識で、とってつけたような発言ばかりしている。
忙しさを理由に勉強を怠って、決まった論文ばかりを引用して、プライドを捨てて周りに迎合して、子どものころ一番なりたくなかった類の大人になっている。

周りの人に対して尊敬できない、反吐が出る、と思うのと同時に、いつしかその景色に溶け込んでいる自分にも吐き気がする。

でも小さな希望の光もあって、こうなりたい、と思える大人にも出会えた。

私は、見つけた希望の光を見失いたくない。
私は、脳みそを止めたまま毎日を適当に過ごして、人生を捨てたくない。

だから私は、勉強したい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?