幻視を直視すること、について

先日、変わった夢を見まして。或るバンドのメンバーと一緒に、今後の活動について考えていたのですが。

すっと、窓の外らしき空間に、声が響き渡り、

「おまえは現実を直視するのが怖くて、目を閉じ、現実を幻視して直視し、現実逃避した。それが芸術だ。」

と言ったんです。バンドのリーダーに対して言ったみたいなんでんすが、そこで目が覚め、夢だったんだと思ったんですが、この、

「おまえは現実を直視するのが怖くて、目を閉じ、現実を幻視して直視し、現実逃避した。それが芸術だ。」

と言う言葉だけは鮮明に脳内に残っていたので、スマホに入力して、記憶しておくことにしました。思うに、結構重要なことだとおもったんです。それはまるで、自分がこの世に生まれた時に、現実をどのように見たか、ということまで遡及できそうな気がしました。無論、芸術がこういった体験から生じるものが全て、とは思いませんが。アプリオリなものとしての、芸術の要素なのかと、思い始めたんです。芸術は、現実を一コマ置き換えます。かの、二葉亭四迷も、『小説総論』の中で、

「模写といえることは実相を仮りて虚相を写しだすということなり」

『小説総論』/二葉亭四迷

と言っています。芸術家でなければ、或いは、アプリオリなものでなけれぼ、「模写といえることは実相を仮りて虚相を写しだすということなり」、とはならないと思うんです。模写なんてないんです。実相、すなわち現実が、全てです。そう思えば、

「おまえは現実を直視するのが怖くて、目を閉じ、現実を幻視して直視し、現実逃避した。それが芸術だ。」

と言う言葉にも納得がいきます。『小説総論』にある通りだと思います。アポステリオリなものは、上記した言葉を学んで行った芸術です。アプリオリでもアポステリオリでも、芸術は芸術ですが、二葉亭四迷に倣えば、芸術に早熟で早死にする芸術家は皆、これらをアプリオリなものとして、備えていた、と言えないでしょうか。早くから、この幻視して直視で、現実を気楽に見れないため。

現実を直視することについて、の対極にあるものとして、今回書きたかったのは、タイトルにある通り、幻視を直視すること、について、でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?