萩原朔太郎論ー伊東静雄を認めたことー
萩原朔太郎論ー伊東静雄を認めたことー
㈠
伊東静雄が発行した、『わがひとに与ふる哀歌』を、萩原朔太郎は「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛したことは、周知の事実として、詩壇では良く知られている。萩原朔太郎が好みそうな理由が、『わがひとに与ふる哀歌』を読んで居ると、良く分かるのである。インテリでありながら、所謂、孤独というものに依拠し、それでもなお、絶望から希望を見て、希望を掴もうとする、その様な態度は、恐らく、萩原朔太郎が幼い頃持って居たものであり、『わがひとに与ふる哀歌』を読んで、懐かしさを痛切に浴びたのではなかろうか。
㈡
伊東静雄もまた、萩原朔太郎の様な、一種の神経の様なものを、言葉にするのが上手く、俗によらず、ぼろぼろの身であっても、精神は尚、高きところへと行こうとする情熱の様なものが、『わがひとに与ふる哀歌』には見られる。日本の、古典的な、余りに古典的な本質を詩化する方法論の、試作を得意とするような動きが、詩には見られる。一見して、何を言いたいのか良く分からない、或は、分かり易くないものを書いて居るし、主体、客体の、言葉の入れ替えが上手いのだ。
㈢
こういう伊東静雄を、萩原朔太郎が認めたことは、即ち、萩原朔太郎の格を上げる形にもなったであろう。萩原朔太郎の、詩に足りなかったもの、それを補完するような、伊東静雄の詩は、萩原朔太郎にとっては、日本の詩壇の、絶望的な行く末に、光を与えた格好となったのであろう。しかしどうやら、伊東静雄が、後継者を作ることはあったにしても、伊東静雄を超える詩人は、日本に本当に必要な詩人は、その後、出てこなかった様に思う。その点では、非常に特異な存在でもあるだろう。萩原朔太郎論ー伊東静雄を認めたことー、と題したが、要は、萩原朔太郎の思う日本の詩人の、萩原朔太郎に成し得なかった詩を書いた伊東静雄は認められたが、萩原朔太郎の系譜として、伊東静雄を位置するには、伊東静雄には力が及ばなかったと、そう思われる。以上で、論を終える。
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