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小林秀雄論ー西行、についての考察ー

小林秀雄論ー西行、についての考察ー

自分は、西行について、ほとんど詳細を知らない。唯一、大学の学部時代に、『西行物語』という本を考察する科目があって、それで良い点を貰えた記憶があるだけで、今でも何をやったか、ほとんど憶えていないのである。すると、自分がはっきりと西行について学んだのは、小林秀雄の書いた『西行』だけだということになる。ということで、西行について知るなら、小林秀雄の『西行』を読んでしまおうと思い、昔読んで、或る程度憶えている程度である。それでも、西行の詠んだ歌は、いくつかは記憶に残存していた。

小林秀雄の『西行』を読むと、まずはその生き方に比例して詠まれた歌に、格好良さを感じるものだ。とりわけ、後述するが、三首。とても良い歌がある。しかしこの、小林秀雄の『西行』を読んでしまうと、もう他の西行論は読まなくても良いんじゃないか、と思う程に、優れた文章と内容の『西行』なのである。小林秀雄は、こう言う。

天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚われぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者だったに違いないと思う。

『西行』/小林秀雄

西行のことを、文献を引用せずに、これだけ確信的なことが言える小林秀雄もすごいが、その小林秀雄が言うのだから、上記した、西行の像は、確かにその様であったのだろうと思う。「生活法の体得者」という言葉に着目すれば、芸術至上主義というよりも、リアリストだった、というほうが適切な解釈だろう。生活人、西行は、生活の中の機微に触れて、そこに歌を発見したのではないだろうか。

次に、前述した、とても良い三首を記する。

世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ

『西行』/小林秀雄

自分が気にいっているとはいえ、これらは西行の代表作に入る歌ばかりである。世の中を捨てない人こそ捨てているというのだから、世を捨てて外観から世を見るということが、本当は世を知ることになる、という、一種逆説的な思想歌である。こういう、現代性を持っている歌を、この昔に既に達観していることは、驚くべきことだ。

風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな

『西行』/小林秀雄

また、我が思ひ、というものを、風になびく富士の煙に例え、行方も知らぬという我が思ひを詠って居るこの歌は、実に有名である。小林秀雄は、この歌を西行が自讃歌の第一に推したという伝説を信じる、と言って居る様に、西行の最晩年の境地だと言えるだろう。これは、一種の悟りである。そして、人生がどう今後運ぼうと、思いというものは、どうこうなるものではない、宿命に身を任せるのだ、という自己放棄の状態が、ありありと歌となっていうことこそ、西行の天才を示しているのだ。

願はくは花の元にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

『西行』/小林秀雄

この歌を詠んだ西行は、その願いの通りの季節に没したという。伝説にはいつも、偶然を必然とする力学が働く。小林秀雄が、何故、西行に捉われ、また、『西行』を書こうとしたかは、批評家として、世に出た自分の天才と伝説を信じていたからであろう、頑なに、小林秀雄は、西行に自己投影を行う。天才と天才の、時代は異なっても成せる、語り合いの様な、『西行』論である。

この様に、西行について、ほとんど小林秀雄の『西行』しか知らぬと言っても過言ではない自分が、小林秀雄の『西行』論を述べることは、大変難しかった。しかし同時に、こう言った言葉の極地まで来ると、何か自己が高められる感覚を受ける。文章を読んでいて、西行に少し近付けた感じがする、という感触を、小林秀雄に導いて貰った感じだ。しかし少なくとも、西行を論ずるにあたっては、小林秀雄の『西行』論を省くことは出来ないだろう。つまり、何度でも繰り返して読みたくなる、小林秀雄の『西行』なのである。

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