芥川龍之介論ー精神の浄化としての小説ー

芥川龍之介論ー精神の浄化としての小説ー

芥川は、人間の良いところも悪いところも、両方書いている。斜めに切り取った小説の視座も見受けられるが、『蜜柑』などでは、悪いところも良いところも書いていて、それこそ、読後感の、精神の浄化足るや、半端なものではない。良いところも悪いところも、と書いたが、美しいところも、汚れたところも、と言い直した方が、適切かもしれない。芥川は、自分としては、中流階級だと思って居るが、恐らく合っているだろう。また、読者を集めるのが得意で、人気があるのも、世間一般を見た時に、普通の中流階級が多くを占めていることから、その要因として、共通概念が発生し、読者の多くを得たのではないかと、推察する。

まさに、『歯車』などは、そういった意味において、悲劇的だが、そこに、悲しむ読者が多いことも、人気たる所以だと思って居る。だから、我々は、今日まで続く、芥川賞に、いつも希望の光を見ようとしてきた。そこに、新しい時代を発見することを、して来たのである。そうであるから、芥川賞と聞けば、次は誰が取るのか、という事が話題になるし、最先端を行く文学を知ることが出来る。我々にはやはり、この半年一度の、芥川賞というものが、気になって仕方がないのだ。自分は、そうして、芥川賞に未来を見る。日本の未来を見るのである。

それにしても、芥川龍之介論ー精神の浄化としての小説ー、で言いたかったのは、そうした未来を見れることで、日本が闇に覆われないという点において、精神の浄化が成されるし、その反復で、芥川の小説に戻れば、また、芥川なりの、精神の浄化がなされるのだ。『或日の大石内蔵助』や、『枯野抄』などでは、独特の内容で、読み手の精神を揺さぶり、浄化してくれる。この何度も言う浄化とは、良い面だけではない、斜めに切り取られた面を見ることで、人生の無常などを感じ、そこに、人間としての人生、における、精神の浄化を感じる、ということである。芥川がもっと長生きしていたら、どんな小説を書いただろう、と不思議な気持ちになる時がある。今日まで、芥川賞、という賞が残っている所以である。

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