埴谷雄高、作品に残る【永久論】
埴谷雄高、作品に残る【永久論】
㈠
埴谷雄高の作品に触れると、何故か、永久と言う言葉が脳裏を過る。別段、作品において、埴谷雄高=永久、と言ったことは、書かれている訳ではないが、文章を読んで居ると、そこには人類が繰り返し辿るであろう、永久的な感覚が、見事に書かれているのだ。例えば、宇宙論においては、そう言った永久のことが、汲み取れるし、埴谷雄高は、既に人類滅亡までのシナリオを知っているのではないか、と思われる程なのである。これは一体、どうした訳であろうか。不可思議が不可思議を呼ぶ、異常事態であると言って良いが、埴谷雄高はもう没しているので、そこらあたりのことは、もう聞いてみることは出来ない。
㈡
思うに、埴谷雄高は、我々の先の先まで、人類の悪徳などを、見通しているのだろう。そう言った点では、かなりの知識人だと言える。何か、そう言った永久と言う言葉に関する、例えば戦争と平和、などということも、知悉している感じがするし、『埴谷雄高 文学論集』、『埴谷雄高 思想論集』、『埴谷雄高 政治論集』、などには、事細かに、人類の永久的に辿る道などが、書いてあるようにも思え、何度も読み繰り返すのであるが、何ともそれは、不可思議の一点張りでもある。こちらの理解度が少ないのか、埴谷雄高の言葉が足りないのか分からないが、実際に永久と言う言葉が頻繁に使われている訳ではないのだが、埴谷雄高を思い出すと、永久と言う言葉が浮かぶ。
㈢
埴谷雄高、作品に残る【永久論】、と題して述べているが、要は、永久論というものが、現実には具体的に書かれておらず、命題として作品に残っている/書くべき永久について書かず、しかし意識には書かねばならないと言うものが残っていて、作品を透視すると見えて来る、と言う感じがするのである。『死霊』も未完であるから、もしかすると、埴谷雄高は、『死霊』完成に当たって、永久と言う言葉を持ち出したかもしれない。それは、多用されている自同律、とも関係していると思うのだが、如何せん、『死霊』は未完なだけに、埴谷雄高の、『死霊』の先にあったものを汲み取りたい、と言う思いが強いのだが、良く分からない、と言った感じだ。ともかく、埴谷雄高、作品に残る【永久論】として述べて来たが、若干浅い考察になったが、ここで論を終えようと思う。
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