詩人論ー海外の詩人、四人「アルチュール・ランボー、ボードレール、エドガー・アラン・ポー、ジャン・コクトー」ー

詩人論ー海外の詩人、四人「アルチュール・ランボー、ボードレール、エドガー・アラン・ポー、ジャン・コクトー」ー

海外の詩人の詩を論じたことは、ほとんどない。原文を読んだこともほとんど記憶にないし、今迄、論じようと思ったこともなかった。それ故、何分、拙稿になるだろうが、書くことにしたので、書いてみる。少なくとも、外観からの構造論、方法論、人生論になるだろうが、この有名な四人の詩人を読み直す良い機会だと思って、臨む。

㈡「アルチュール・ランボー」

アルチュール・ランボーで、まず浮かぶのは、「地獄の季節」である。その名からして、アルチュール・ランボー(以下、ランボー)が、どれ程の天才だったかを、読み手に与えるその力学は大きい。小林秀雄も青年期に、この「地獄の季節」に傾倒しているが、どうやらランボーは若くして天才だったようである。しかし、その詩業の余りの高度さに、周囲の目はなく、生前は無名だったようだ。詩集を読んでいると、言葉、というものに強く執着し、丁寧に試作している観が伺えるが、何故、死後評価だったのかは、正直なところ、良く分からない。ランボーの白黒写真が残っているが、この写真を見て、詩を読むと、何か天才だという感じがするのである。

㈢「ボードレール」

ボードレールと言えば、やはり『悪の華』、であろう。強烈なこの詩を、自分は今迄、ほとんど読んだことがなかった。読んでみて、確かに、秀作だと思われるが、ランボーの方が気質に合っているのか、読み直すことなく、読み終えてしまう。しかし、ボードレールの評論文の数足るや凄まじいもので、海外の詩人を取り上げるとなれば、ボードレール抜きには考えられないだろう。ボードレールは、大学の法学部に居たことは周知の事実であり、日本の三島由紀夫や平野啓一郎など、法学部の作家は、難解なものを書くと言うイメージがあるが、それは難解な言葉を知っているということ、そのことが難解な詩を生み出すのは当たり前のことであり、ボードレールの研究には、その難解さを構造論、方法論、的に解釈しようとする力学が、文壇で働くのだと思われる。

㈣「エドガー・アラン・ポー」

エドガー・アラン・ポー、と言えば、日本の小説家、江戸川乱歩が名前を、その音として拝借して居る事で有名である。推理小説において、後世に影響を与えたことでも有名だが、詩を読んでみると、かなり散文詩に近い詩であったことは意外であった。「詩の真の目的」という作品も書いており、詩人でありながら、小説家でもあり評論家でもあった、エドガー・アラン・ポー(以下、ポー)は、自身の作品の構造や方法についても、吐露している観が伺える。しかし、イメージとして、江戸川乱歩、が強すぎて、とにかく、推理小説の祖という感じが抜けきらないのも確かだ。詩では、段落を変えたり、棒線を多用するなど、実験的な感じを強く受けるし、江戸川乱歩が名前を拝借したかったくらいだから、相当に、芸術的に優れた詩人であり、芸術家であったと思われる。

㈤「ジャン・コクトー」

ジャン・コクトーについては、芥川龍之介の最晩年の作品を研究していた時に、ジャン・コクトー(以下、コクトー)の名前が出て来て、そこで知った詩人である。しかし、コクトーは、試作のみならず、戯曲、絵画、映画など、多才な芸術家であったこともあり、芥川が何かその多才的天才と密かに敵視していた感も、否めないではない。コクトーの詩は、非常に難解である。言葉も、方法論も、そこまで難しくはないのだが、詩の構造に於ける言葉の出し入れが非常に上手く、知的な感じを読み手に強く与えて来る。この、詩における一種の乱雑的構造は、戯曲、絵画、映画、などに手を出していたことからくる、詩への新しい挑戦という意味で受け取れば、適切だろう。悪く言えば、詩で失敗しても、戯曲、絵画、映画、に逃げ道があったことが、より大胆な詩を書くことに至ったと、考えられなくもない。

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