罪のアント二ム(対義語)が分からない、という点について

自分は、生まれてから、人並みの人生を送っていない様だ。周囲を見渡しても、自分だけ何かが違う、といった、ぼんやりとした感覚は、もう幼い頃から、精神にずっと根付いている。

自分は、道に迷った時、文學に救われて来た。気分の高揚のためには、音楽が必要だったが、救ってくれたのは、文學だった。自分が学生時代に、混沌に迷った時に、ゲーテの格言集、と言う文庫本に出会い、救抜されたのを鮮明に覚えている。

ただ、学生時代も終わる頃、社会という混沌に投げ出され、物事が良く分からなくなったのである。この時、精神に引っ掛かった言葉がある。太宰治の『人間失格』に出てくる言葉だ。

「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」

『人間失格』/太宰治

アントニムとは、対義語と言う意味だが、罪のアント二ム、と言う言葉が引っ掛かった。そして、自分は、これまで、罪を犯してきたのかどうかも、判別がつかなかった。無論、犯罪は犯してはいない、法律も破ってはいない。しかし何か、罪を犯してきた気がしたのが、何とも不可思議であった。云わば、罪の渦に入って、出口がない世界に住んで居る様な気にもなってくる。

ドストエフスキーに『罪と罰』と言う小説があるが、これは、罪のアント二ムが罰だ、と言う内容の小説ではないと思う。よくよく、調べてみると、罪にはアントニムがないそうだ。つまり、この世は、救いのない世界だということか、と認識するに至る。これは、危険な状態だと思うが、救いを見出せない自分は、路頭に迷う、という訳である。

罪のアント二ムさえ分かれば、この地獄から脱出できるだろうと思うが、芸術にも法律にも辞書にも、罪のアント二ムは載っていない。

無論、刹那の、救われた感、というものは、日々実存している。気持ちが晴れたなあ、とか気分が良いな、とかである。しかし、自分の人生の根本的な救いにはなっていないと思う。この侭、罪を無意識に犯し続けて行けば、とんでもない地獄に行くのではないかと、思う反面、半ば、罪のアント二ムを考えることに疲れた、というか、諦めたという諦念のほうが強い。

太宰治の『人間失格』の最終箇所に、この様な内容がある。

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

『人間失格』/太宰治

確かに、と思う訳である。どこにも書いたことはないと思うが、自分は父親から、精神的にも金銭的にも、愛情を受けた記憶が一度もない。母親はよくしてくれたが、父親は、正直死んでも涙は出ないと思う。言葉の暴力の数々、それを思うと、この、「あのひとのお父さんが悪いのですよ」と言う箇所には、強く同調するものがある。しょせん、一人で生きていくしかない訳である。実質的には、金銭は父親が握っているから、母親に金銭的に頼ることも出来ない。

まさに、こういうのは、生き地獄というやつではないか、と思っている。

父親が、自分を罪の渦へと放り込んだのだろうか。幼い頃過ぎて、記憶にも上らないが、罪のアント二ム(対義語)が分からない、という点について、その原初は、父親の教育的に見える、自分を罪の渦へと投げ込んだ、その行為に見い出せる様な気がした。しかし、もしも、父親もまた、自分の父親に同じことをされていたとしたら、祖父に原因があるという、連鎖の悲劇が、過らないでもない。

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