芥川龍之介論ー最後に話を煙に巻く方法論についてー

芥川龍之介論ー最後に話を煙に巻く方法論についてー

芥川龍之介の小説の方法論として、話の落ちを、はぐらかし、読者を煙に巻くという方法論が多くある。これは、結末を述べず、読者に疑問を提示する、と言えば格好がつくが、換言すれば、最後まで自分を述べず、隠れるという方法論であり、それが、芥川龍之介の、良くない点だとも言えそうなのである。

①例えば、『大川の水』という作品。

大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。

『大川の水』/芥川龍之介

ここでは、最後の主題が、水から生活に変容されている。最後の最後に、水の話を持って来ていないことが、少し虚しい。

②次に、『羅生門』という作品。

下人の行方ゆくえは、誰も知らない。

『羅生門』/芥川龍之介

ここでもやはり、主人公を失踪させている。読み手は、下人はどこへ行ったんだろうか、と疑問が残る仕組みになっている。

③次に、『藪の中』という作品。この場合は、七つの話が出て来るが、真実が一致しない点で、作品そのものが、懐疑、を残す有様になっている。

④次に、『トロッコ』という作品。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

『トロッコ』/芥川龍之介

ここでは、最後の最後に、少年時代から、時間を急加速させて、現在の主人公の状態に変換されるだけでなく、「…………」を入れることで、読者を何故か不安にさせているように思われる。

⑤次に、『蜃気楼』という作品。

そのうちに僕等は門の前へ――半開きになった門の前へ来ていた。

『蜃気楼』/芥川龍之介

ここでも、話の落ちはなく、淡々と、話らしい話がないのが特徴的で、結局何が言いたかったのか,訳が分からない。

⑥次に、『玄鶴山房』という作品などは、芥川が構造の失敗の可能性を白状してしまう程に、情けないのである。面白い作品ではある。しかし、落ちが非常に乏しい。

⑦最後に、『歯車』については。

――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

『歯車』/芥川龍之介

という、何処かの誰かに、また、読み手に語り掛ける様な形式で、落ちを読者が考えなければならない構造になっている。

この様に見て来ると、芥川龍之介論ー最後に話を煙に巻く方法論についてー、という題目で述べて来た内容が、作品に多々見えるのである。無論、このことが、作品の質を下げているとか、そういった問題ではない。ただ、こういった方法論を使う傾向が、顕著に見られるということだ。志賀直哉に、自分は芸術というものが分かっていない、というなど、自信も余りなかった様である。

しかし思うに、最晩年の芥川龍之介の作品には、鬼気迫ったものがあり、『歯車』なんかにおいては、充分鑑賞に堪えるものだと、思って居る。落ちがなくとも、作品に需要があれば、それで良い、という考え方もあるだろうし、起承転結だけが、小説ではない。ただ、芥川龍之介が固執した、ー最後に話を煙に巻く方法論についてー、ということにおいては、未だに、何故そういう傾向になったのだろう、本当の自分を吐露しなかったのだろう、吐露出来ていれば、自殺しなかったのではないか、という思いが去来するのである。これにて本論は終わるが、未だにその方法論に対する芥川龍之介の固執は、謎の侭なのである。

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