埴谷雄高、闇との対話という【幻想論】

埴谷雄高、闇との対話という【幻想論】

埴谷雄高、と言えば、一目散に思い浮かべる言葉がある、それは、闇、である。丁度、短編の代表作になっている、『闇のなかの黒い馬』、にも、闇という言葉が使われている。我々は、埴谷雄高の発信する闇という言葉に、ついには、埴谷雄高=闇、とでも言えそうなくらいに、或は、闇=埴谷雄高、とも換言出来そうなくらいに、思いを馳せるのである。ともかく、埴谷雄高の文章を読んでいると、闇という言葉に引っ張られるし、文章が現している内容が、闇の様でもあるから、とにかく、埴谷雄高の作品に触れると、ああ、闇だな、という感受性が闇を感知してしまうのだ。

しかし、この闇という、実に抽象的な言い回しである闇、というものは、埴谷雄高が文章執筆時に、闇との対話をしているように思えてならない。独房に入った経験があるからなのか、その個室で、闇というものを感じ取ったに違いない、と思う程に、暗い暗い、闇の使用法なのである。ところが、である。埴谷雄高の作品をいくら読んでも、闇について事細かく説明がある訳ではない。単なる闇なのであって、確かに読んでいて、闇だな、とは思うものの、具象性が感じられないのだ。一体どういう闇なのか、精神の中の闇なら闇で、具体的な詳細が明かされそうであるが、そうはならない。身体的な闇、風景としての闇、夢の中の闇、どれをとっても、闇は闇とだけ定位しているのみだ。

こう言った事情から、埴谷雄高、闇との対話という【幻想論】、というものを書いているのだが、埴谷雄高が観ている、或は感じている闇とは、幻想ではないだろうか、という実証である。闇と対話しているようでいて、何も闇からは返答が返って来ていないのだとしたら、その闇は、幻想である。幻想としての闇と、埴谷雄高はいついかなる時も、対話しているのだから、具象性が現れる訳がないのである。そうなって来ると、読み手としても、その闇に何を見れば良いのか分からなくなるが、もしも埴谷雄高のほうが、読者より一枚上手で、抽象的闇、を執筆することによって、読者に想像力の喚起を提示しているのだとしたら、随分、埴谷雄高は超思考である。つまり、幻想を見よ、そして幻想に何かを考えよ、ということならば、話は変わって来るが、しかし、埴谷雄高、闇との対話という【幻想論】、という事実は、変わらないのである。結句、埴谷雄高が意識的であれ、無意識的であれ、闇との対話が、幻想である、という【幻想論】に帰着することには、変わりないのである。これにて、埴谷雄高、闇との対話という【幻想論】、を終えようと思う。

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