小林秀雄論ーXへの手紙、雑考ー
小林秀雄論ーXへの手紙、雑考ー
㈠
小林秀雄の『Xへの手紙』は、一見難解に見えるが、一回性というものを知ったら、誰もが通る道だと思われる。夢をみていた者が、夢をなくした状態、とでも言えば適切だろうか。しかし、この状態こそが、夢の具現化だと、誰もが思わないのは不思議だ。
㈡
例えば、この様な箇所がある。
こう言う状態を、価値の転化と見るには難しい。失ったということは、転化後しか存在しないということだ。つまり、今、というものしかないということだ。自分は過去というものを憶えてはいるが、小林秀雄のこの状態は、過去を失ったと言って居る。分からないでもない。しかし、それには何かの起点があったはずだ。それを、読み手、X、に対して、手紙として述べているということになる。この『Xへの手紙』は、どうやらこういった状況に陥った人間しか、同じ感覚を理解し得ないのでは原ないか。或る意味、小林秀雄は、芥川龍之介の恐れた発狂を、実際に発狂して原体験したのではなかろうか。依然として、『Xへの手紙』は、良く分からないものとして、文章になっている。
㈢
続いて、この箇所。
今度は、精神の問題になってくる。「たとえ社会が俺という人間を少しも必要としなくっても」、これは名文ではある。しかし、社会そのものが、人間というものを必要とするかは、非常に疑わしい。何なら、社会への帰属意識を自ら捨て去れば良い、とも思う。ただ、小林秀雄にとっての、この述懐は、小林秀雄にとっては、重要な真実らしい。そういう真実だと言われたら、頷くしかない。もっと他の生き方があるとはいえない、読者は小林秀雄ではないからである。しかし、前述してきているような、状況下に陥った人ならば、小林秀雄に共感し、救いになるだろう、『Xへの手紙』、である。
㈣
こういった、小林秀雄に病名を付けるとすれば、何が適切だろうか。何れ自分も通る道だと仮定して名付けるならば、言語的社会倒錯体験病、とでも言えば適切かもしれない。しかし、病ではあっても、これは、個人が一つの神の座を得るための、通過儀礼であろう。夢と現実の反転した、小林秀雄の世界には、もう批評しか残されて居なかったのではないか。そう思う時、小林秀雄の、物を見る、眼、が開眼したのだと、了解しよう。
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