芥川龍之介論ー『歯車』と『或る阿呆の一生』に於ける、構造の推移ー

芥川龍之介論ー『歯車』と『或る阿呆の一生』に於ける、構造の推移ー

大学の学部の4回生の時に、『歯車』論をゼミで発表し、大学院に進んで、本格的に『歯車』を研究した。卒論は、『河童』と『歯車』で、大学院では、『玄鶴山房』と『歯車』を研究していた。大学院は中退したが、今でも、必死に研究した記憶と、論文の執筆の方法論は覚えている。本当は、『歯車』と『或る阿呆の一生』を研究したかったので、ここでは、その研究の名残の様な形式で、芥川龍之介論ー『歯車』と『或る阿呆の一生』に於ける、構造の推移-、として述べてみる。

自分の場合の研究方法を先に述べておくと、小説のストーリーを研究するのではなく、小説を司っている、原理、を批評する。原理批評というものである。であるから、ストーリーがこうなって、こうなって、という事は、殊の外である、研究外の話なのである。すると、『歯車』と『或る阿呆の一生』に於ける、構造の推移、として述べる本論は、構造の原理批評となる。そういうスタイルで研究していたし、現在でもそういったスタイルが、自分には興味のある研究方法なのである。

『歯車』において、この日記形式の小説は、6章に分かれている。しかも、文章全体が、何か、区切り区切り書かれている様に見える。その内容に、芥川の小説の多々あるものの中から、少しずつ拝借して、文章たらしめて居る感がある。これは、小説というものは、個体であり、一つのテーマに沿って書かれるものだが、『歯車』の場合は、テーマが攪拌して、統一されていない、という原理が見えるのである。これは、いわゆる、パースペクティブ(先への見通し)が寸断され、攪拌された文章の集合体になっているものに見える。また、文章が、芥川の意識に準じて、上下に振れ幅を持って書かれている様で、研究当時、これを意識の層が、多層性を帯びて小説内に内包されている、という結論を導き出した過去がある。現在でも、『歯車』が、意識の層によって成り立っているという確信があるし、原理的にその様に形式されていると思って居る。

これが、『或る阿呆の一生』になると、51の断片になって、書かれており、これは多分に、完全にパースペクティブを失った状態であり、攪拌され更に攪拌され書かれている。この構造の推移をまとめると、以下となる。

『歯車』の破綻したストーリー      
      ↓
『或る阿呆の一生』の破綻した断片

本論の図式

となる。言った図式は、云わば、小説家が詩人になる時の兆候を現しており、多くの詩人が、ここから出発するのであるが、小説の敗北と自己の発狂と、この図式を捉えた芥川の脳内は、死を選んだのである。恐らく今述べているようなことも、「ぼんやりとした不安」の中に内包された、一つの図式だったと思われる。

芥川龍之介論ー『歯車』と『或る阿呆の一生』に於ける、構造の推移ー、という、短い論になったが、自分が言いたかったのは、こう言った研究結果を見据えて研究していた、ということである。勿論、内容も、両小説共に面白いが、記した図式の様に研究を導きたかったのである。『或る阿呆の一生』ではなく、『玄鶴山房』を研究課題としていたため、実現できなかったことを、ここで述べた、ということになる。以上である。

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