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与えること・奪うこと

小学生の我が家の子どもたちは、とにかくよく遊ぶ。土日になれば朝からウキウキで近所へ飛び出していく。季節のいい時期は昼ご飯以外の時間を外で過ごす。なんならお昼も外にテーブルを出して友だちと食べる。
それもこれも、我が家はゲームもテレビも置いていないという環境が影響していると思う。もちろん動画の類も基本的に見ることがない。だから自然と外に出ていく、楽しいことを探しに。

受け身の楽しさと創造的な楽しさ

かつてはテレビも見ていた時期があった。保育園に通ってた頃、夜バタバタと帰宅して食事を作ったりなんやかんやと親は忙しい。その時子どもがテレビを見ててくれれば楽だし静かだし。そこに頼ってた時期もあったけど、長女の小学校入学と同時にその生活を断ち切った。
前々から子どもを見ていればよくわかった。テレビとか動画とか、それをつけた瞬間、子どもたちはその刺激に、魅力にすべてを奪われてしまう。体の動きも止まってしまう。でもそれを消した瞬間、子どもたちは動き出し、自分たちで遊びを考えだし、なんじゃかんじゃと遊びだす。そしてまたそこで何かの拍子にテレビでもついた時にはパタッと動きが止まる。目以外はフリーズしてしまったかのよう。
なんだかなぁ…と思った。たしかに楽しくて面白くて刺激に満ちてて、大人にとってもそれがあれば静かにしててくれてヤイノヤイノ言われなくて助かるっていう側面もあるそうしたものたち。スマホもゲームもそうだと思う。
でもそうしたものを断った時、子どもたちは与えられる遊びではなく、自ら創り出す遊びのなかで生活していく。
何か端末から面白いストーリーが流れてくるわけではないから、自分でお話も作るし歌だって作る。笑うためのコンテンツが提供されるわけではないから、自ら面白いことを考えてお互いに笑い合う。自分たちでなんでもかんでも創り出すチカラが自然とついてくる。そしてそれは楽しい。

時代は、いつでもいくらでも自分を楽しませてくれるサービスやコンテンツで溢れかえっている。そこに乗っかるのは楽かもしれない。考えなくても生きていけてしまう。
でも果たしてそれでいいのか。
社会に出て必要なのは主体性とか創造性とか柔軟性だったりする。
自分の人生を自分で引き受けて生きていくとき、
子ども時代に本当に育まれるべきものがなんなのか、もっともっと話されていいと思う。

#子どもに教えられたこと

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