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50代のおばさんがうつ病になりました。⑩

 母が入院して、一ヶ月で亡くなった。
 入院初期は週一回30分の面会が、後半には週二回になり面会の規則も緩くなった。しかし、母は眠っていることが多く、会いに行っても殆ど会話らしい会話をしていない。
ぼんやりと目が覚めている時は、「朝、目が覚めるとガッカリする。まだ生きてるって」なんて言う。気持ちはとても解る。元気に活動的なら生きてることも喜びだが、ただただベッドで横になっているだけで、味気ない病院の天井しか目には映らず、食欲もないため、大好きだった甘いおやつも食べる気がしない。「早く楽にさせてあげたい」と私も思っていた。それでも、出来る限りのことはしてあげたいし、出来る限りの楽しみも感じてほしいので、コーラとロックアイスとアイスボックス(味付き氷)を面会の度に持っていった。固形物は喉を通らないが、口の中で氷をしゃぶり、徐々に溶ける氷で水分を取ったり、また、コーラの甘さと炭酸の爽快感は喉が受け付けるようで、「美味しい、美味しい」と喜んでいた。

 母が危篤状態だと連絡が来て、バタバタと支度して病院へ向かったが最後の時には間に合わなかった。
 痛みのない癌末期であった。
 最後の最後に少し痛みを訴えていたので貼るタイプの痛み止めを使ったとのこと。
「痛い痛い」と思いながら死んでいくのはかわいそうだから、じゃんじゃんモルヒネ使ってあげてくださいね!と担当医師には伝えておいたが、殆ど使わずに亡くなった。

 葬儀も母の遺言通り簡素に行い、お墓に関しても、生前に決めてある納骨堂があるとのことで、そんなに悩むことなく母を送ることができた。
 葬儀社との打ち合わせは夫が付き添ってくれたのでとても助かった。脳の回転はやっぱり低速モードのため、私ひとりだけでの打ち合わせだと少し心配がある。
 湿っぽい葬儀にはしたくなかった。母は死を悲しいこととは捉えてはいなかったし、私も同じ思いだ。私が病気でなければ、BGMにもこだわり、プレイリストを葬儀社に渡したいところだが、そこまでする元気も気力もなかったので、葬儀社にお任せし、お決まりのオルゴールの優しい音色が流れていた。
 出席者の親族の中には、棺桶の母を見て涙を流す者もいたが、私自身は一切涙が出なかった。
 私は冷たいのか?
 母がステージの高い癌と分かった時から覚悟は出来ていた。抗がん剤治療も当初がんばっていたが、やはり副作用が辛いらしく途中でやめてしまった。その治療で癌細胞をゼロにする事ができて活発な母に戻れるのなら、私も「もう少しがんばろうよ」と声がけもできる。しかしながら癌細胞を小さくしてからその後手術で取り除く、という高齢の母には体力的にも大変辛い行程だ。簡単には癌細胞は小さくならず、何度目かの抗がん剤治療を最後に自らやめた。私はその判断に賛成した。本人の気持ちが一番大事だ。最後の最後にケリをつけるのは本人にさせてあげたい。

 特に宗教にこだわりはない。なので適当な期間、我が家で骨壷を保管し、そろそろ暑さも和らいだ頃に納骨しに行った。

 次に待っていたのは、母の遺品整理だ。前にも書いたが何しろ物で溢れている家である。
 ひっそりと静かな母のいない家に 足を踏み入れると、ホームセンターなどで経験した物が迫ってくるようなアノ気分になる。大した片付けもしないうちに気分が悪くなってしまい、作業が進まない。
 我が家に持っていく物。捨ててしまう物。それを分けるのに二ヶ月というとても長い時間を要した。
 心配した友人が、手伝いに来てくれたが、一日の作業時間はせいぜい三時間ぐらい。無理をするとぐったりと疲れてしまい使いものにならなくなってしまう私。無理せず体調を見ながら二ヶ月かけて作業していった。
 いらない物だけになった母の自宅。後は葬儀社から紹介された不用品片付け業者に任せた。
 母ひとりで住む家は、狭くてひとり暮らし向きと思っていたが、物が無くなると意外と広かった。
 誰も主人のいないこの古びた家を、今後どのように活用しようか、常に虚無感状態と言おうか、あれこれ考えが及ばない私には悩みの種となった。家の立地等の関係上、簡単に売買できるとは言えない家なのだ。母は自分が誰にも迷惑かけずに、自由に住める一代限りの家として購入したのである。
 居住者のいない家は、どんどん朽ちていく。古い家なので、気を利かせて空気の入れ替えに一週間から二週間に一度くらいの頻度で母の家へ向かった。
 全ての窓を大きく開け、風を呼び込む。母の家特有の匂いを薄めたくて。
 ほぼ物置として使っていた二階のひと部屋は明るくて広く、とても良い部屋であった。物置状態だったから滅多に入ったことのない部屋であったため、こんな良い部屋だと知らなかった。
 何もない部屋でゴロリと大の字になり、ものの無い気持ち良さを味わった。
 季節は秋に移り、風が少し寒いが、ものに圧倒されそうなアノ感覚がないのが気持ち良かった。また、生活音すらしない。音にも敏感になっていたので無音状態がさらに心地よい。
 ただ難を言えば、ここはやはり母の家特有の匂いがする。私の家ではないと改めて気がつく。
 面白いものだ。私を腹を痛めて産んだ実母の家なのに、私はここで生活をしたことないが故に、他人の家のように感じている。母との思い出も沢山あるのだが、実家でもなんでもないこの家に郷愁や執着することも全くないのだ。

 何もない部屋に気持ち良さを見出した私は、我が家も断捨離に励んだ。但し、気持ち良いからと無理をして動くと、疲れが祟って寝込む羽目になるので、じっくりじっくりと。
 家族がいるので全て処分はできないが、私の領域の物の中から、いらないものを捨てる、売る、あげるをすることで、私の頭の中もスッキリさせられる。
 私自身も母と同じで、趣味の道具に囲まれた生活をしていたが、今は趣味をとてもやる気にならないのだから、一度手放そうと思った。とは言え、ただ捨てるのも忍びないので、我が家の集合住宅敷地内に『手芸のお好きな方。ご自由にどうぞ』と書いた紙を貼り置いてみた。ものの見事に何方かが引き取ってくださった。
 物への執着を断ち切るのは気持ちが良い。
「いつかやるものは、そのいつかに揃えれば良い」
 物に占められていた場所に、母の家から唯一持ってきた桐箪笥を置くことができた。
 箪笥からは微かに母の家の匂いがするが、引き出しを開けると、着物を守る藤澤樟脳の匂いが広がる。私が好きな匂い。この匂いを嗅ぐと母との良い思い出が蘇る。
 私と母と、親子として唯一繋がりを感じるものが藤澤樟脳とは、全く私という人間は、ほのぼのとした温かい家族愛とかに向いていないものだと苦笑してしまうのだった。








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