2022年に『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』を見返して思ったこと

この春に、大学のフリーペーパーサークルに寄稿した文章は、ロメロによる終末的世界をパンデミックと戦争の現代に結びつけて自己満足的ペシミズムに溢れた何とも気持ちの悪い文章であった。それからも世界は目まぐるしい速度で地獄に突入し、それに追いつけないままに就活やら引退やらが自分の生活に浸入した。あらゆる言説は、インターネット上に公開された瞬間に、潜在的差別意識に裏付けされたネットミームに晒されることを余儀なくされる。ある人がオンラインサロンで特権を振りかざして憚らないことも、ある人が誹謗中傷に耐えきれずにアカウントを削除することも、残念ながら珍しいことではない。全ては加速度的に悪の一過を辿る。再び絶望的な思考循環に陥りそうになる。そこで『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』である。映画館で見たのは、中学校3年生の時に同級生とおっかなびっくり立川シネマ・シティに赴き爆音上映を体験した時以来であったか。説明のためだけのセリフを削ぎ落とし、観客に映像を見せ、音を聴かせれば物語は伝わるという非常にシンプルで強固な信念に基づいた力強い映画である。それにしても、ここまでポリティカリ・コレクトネスに真摯な映画も珍しい。「産む機械」と見なされた女性たちは反逆を始め、彼女たちの苦しみと怒りと生への意志は、「サービス」的な暴行映像などを挟む余地もなくアクションで語られる。行動を共にするマックスは、眠れる美女を守るヒーローなどではなく、相手にケアを施しへし折られた自分への尊厳を取り戻す人間である。何より、マックス達に立ちはだかるイモータン・ジョー軍団は、人を人とも思わない抑圧と搾取、差別の論理で世界を支配する誰の目に見ても明らかな「悪」なのである。こうした「悪」に、マックス、フュリオサ、ワイブズ達は真正面から対峙し、それは間違っていると明確に否定し、木っ端微塵に破壊して勝利を得る。このコンセプトを突き詰めた結果、映画史に残るほど面白くなっている事実は重く、同時に観客に勇気を与えてくれる。「ポリコレに配慮した作品はつまらない」「乱暴な言葉遣いや行動をしていたら誰も耳を傾けてくれない」「偏った見方ではなく、中立的に物事を見るべきだ」、こうした戯言は全て映画を見終わる頃には、砂塵の彼方に消え去っている。マックスとフュリオサ達の間の美しい連帯を見た後に、この世界をどう生きるかは、とりもなおさず我々次第なのである。

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