多様性
「多様性!なんて便利な言葉!」
これはうちの母の口癖である。
うちの母は悪い人ではない。ただ、自分の育ってきた環境に忠実な人だ。
「私の時代はおわりました」とも、母は言う。
その本質は教育にあるらしい。私の頃の学校と、おまえの学校は、違うから、と。
確かに、今の学校では多様性が重視される。いつだか卒業した私の母校たちも、今では女子のズボン着用が認められている。母の頃は、そんな思考すら誰も持ち合わせていなかっただろう。
みんなを認めましょう。みんな違ってみんないい。と。
認められない多様性は無いのだ。
母は自分の育った環境に忠実だけれども、「認められない多様性は無い」という社会の建前をうまく活用している。それが「なんて便利な言葉」につながる。
母を批判する気はないし、むしろ私もそちら側だ。
母は、動作が綺麗で、うまくお茶汲みができて、家庭を守って、三歩後ろを歩けと育てられた。
そして、私もそうあるように育てられた?
あなたたちの多様性がそれなら、わたしの多様性は「お茶汲み」で、「家庭を守る人」で、「三歩後ろを歩く女」である。
けれども最近、それは認められないらしい。あれまぁ、多様性はどこへ。
私も叫ぼうか。
「多様性!なんて便利な言葉!」
と。
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