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「ベルセルク」は目の漫画だっ!白目篇


はじめに


 「ベルセルク」、言わずと知れたダークファンタジー界の大傑作、金字塔である。繊細かつ緻密なキャラクターの描写、関係性、ストーリー、コマ表現、そしてなんといっても大迫力の絵。どれをとっても超一流。私は断罪篇までなら全漫画で1番完成度が高いと思っている。船乗ってるとこあたりの評価はマジで諸説アリ。

 さて、そんな大傑作漫画で一際強調されている表現がある。それが"目"だ。
 私は「ベルセルク」は目の漫画であるということを常々主張しているがいるが、ネットで調べたところ、あまりこの部分に着目してる意見は見られない。

ベルセルク 13巻
同上

 「ベルセルク」はこのように、横いっぱいにコマを使った目の描写をよく行う。「目は口ほどに物を言う」というように、"目の描写"によってキャラクターの心情を端的に表している。この漫画が目を重視しているのは明白だろう。

 そんな強調されている目の描写の中で、一際大きく目立つのが戦闘中のガッツの白目。黒い剣士ガッツというキャラクターを強烈に印象付ける、この作品といえば!の表現だ。この記事ではその表現のもつ意味について解釈、考察を深めていく。ガッツの目のハイライト表現とかはまた別の機会にやるかも......

 なお、私が見つけられなかっただけで既出の意見の可能性もあるのであしからず。あと断罪篇までをメインに取り扱うのでその範囲のネタバレ注意。十年以上前の部分にネタバレもクソもないが......

前提 

 実はこの白目表現、蝕以前の黄金時代篇ではほとんど出てこないのだ。せいぜい100人斬りの際(7巻)、グリフィス奪還の際(10巻)、ワイアルド戦(11巻)で、そのどれにおいても大コマではない。
 明確に強調され始めるのは蝕における下二つの大コマからだ。

ベルセルク 13巻


同上


 これらに共通する性質は「殺意」で、相手に対して強い殺意を抱いた状態となっている。グリフィス奪還の際や蝕の際は言わずもがな、ワイアルド戦では極限状態の中理性を失い相手を殺すことだけに意識が向いている。100人斬りだけは多分ただの気合いいれる表現になってる。

 後ほど説明するが、要はこのガッツの白目は「恐怖を 殺意が 塗りつぶしていく」という状態なのだ。ここまではぶっちゃけ読んでりゃ誰でもわかる。
 さて、これを前提としておいたのには訳がある。本章冒頭でも言った通り、黄金時代篇でのこの表現は少なすぎる。そう、「蝕」をターニングポイントにこの表現は増えていくのだ。
長い前置きとなったが、"殺意"に加えて、「蝕」後にこの状態となったガッツについて、自分なりの解釈を記していく。

「右目の残照」

 ざん‐しょう‥セウ【残照】

① 日が沈んだ後もなお照り残っている、入り日の光。 夕日。 夕焼け。

② 比喩的に、過ぎ去った物事の影響としてなお残っているもの。

出典:コトバンク

 「右目の残照」
 13巻、蝕においてグリフィスがキャスカを犯す話のタイトルである。この話でガッツは右目を潰されてしまう訳だが、その最後にみたものというのがコレである。

ベルセルク 13巻

 ガッツの一人称視点であることがコマを覆う血で表されているワケだ。

 「過ぎ去った物事の影響としてなお残っているもの」が残照だ。
 17巻でも語られてる通り、「最初の気持ち」というのはキャスカが犯された時の怒りや絶望、憎しみ、恐怖、そういった感情を全て内包したものだろう。「過ぎ去った物事」はまさにここで、いまだにガッツの殺意に影響し続けているのが、右目に焼きついたこの場面。

 話を白目表現に戻す。白目の時のガッツはある種暴走状態。25巻にて語られる白目時のガッツの感覚がこれだ。

ベルセルク 25巻

「誰かを気にかけず 何ものにも縛られずに」
平たく言えば、周りを見ずに対象に殺意をぶつけるということだろう。

 白目を剥くと何が見えるだろう。
 冗談のつもりではない。本気だ。白目表現はあくまで演出で、実際にガッツが白目を剥いているかはわからないということはもちろん前提。

 さて、白目を剥けば周りは見えなくなる。視界は真っ暗。当然だ。では、ガッツの場合は?

 彼が白目の状態は上画像で語られている通り。

「誰かを気にかけず 何ものにも縛られずに」「獰猛なすべてを 解き放つ」

 繰り返しになるが、周りを気にせずに殺意を解き放った状態だ。そしてその殺意の源、原動力となるのは蝕の際のさまざまな負の感情が入り混じった「右目の残照」

 ここまで言えば私の言わんとすることはわかるだろう。そう、

白目の時、ガッツは右目に焼きついた怒りの記憶を見つめて戦っているのだ。


黒い剣士篇において〜ガッツのifとしてのバルガス

 ぶっちゃけ"ガッツは右目に焼きついた怒りを見つめて戦っている"が書きたかっただけなのだが、ここからはそれを踏まえて解釈できる描写を挙げていく。わりかしこじつけになる。

 まずはバルガスって誰だっけ?という人のために彼の境遇を振り返る。
 彼は黒い剣士篇、第1巻、第2巻にて登場する。ガッツに"伯爵"の情報とのちに「ベッチー」と命名されるベヘリットを渡したキャラクターだ。

ベルセルク 第1巻

 彼は伯爵に足と顔、右目を削ぎ落とされており、目の前で妻と2人の息子を食い殺されたという過去を持つ。そして現れた黒い剣士に自身の復讐を託そうとするのだ。しかしながら使徒もどきによる彼のアジト強襲の後、伯爵に捕まり斬首の刑にあってしまう。

 以上が彼のこの作品での動向だが、このキャラクターの面白いところは主人公ガッツのある種ifとして描かれている点ではないだろうか。

ベルセルク 2巻

 ここ、見れば見るほどガッツと重なっている。
 画像の通り、ガッツ自身も右目と、刻まれた烙印を撫でながらバルガスの言葉を回顧している。自分と彼とを重ねて考えているのだ。パックによる「あの人が自分と同じと認めることが怖いのではないか」といったような指摘まである。バルガスがガッツと重ねられているのはまず間違いないだろう。

 では両者の違いとはなにか。それは、復讐を他人に託そうとしているか、自らの手で為そうとしているか、だろう。
 バルガスはいわば、恐怖を殺意でぬりつぶせなかったガッツなのだ。

 ここはバルガスが処刑された後、死体が処理される直前にガッツが現れるシーンである。

 この場面、ガッツがバルガスの死体を一瞥しにくる合理的理由は皆無なのだ。ここでガッツは感情100パーセントで動いているのだが、そこまでしてやったことはバルガスの死体に「オレはもっと上手くやる」と告げることだ。

 ここの白目表現は一見ただの威圧感の表現に思えるが、そこまでの激情をただの兵士に向けるとは思えない。この目は兵士に向けられたものではなく、バルガスに向けたものなのではないか。

 そこで、先ほどの"過去の怒りを見つめている"という解釈を当てはめて読むとしっくりこないだろうか。
 上で長々と書いた通り、ガッツは自分とバルガスを部分的に重ねている。しかしやってきた理由は自分は上手くやる=お前とは違う、という主張のためだけ(ここはパックの問いかけからの流れでもある)。

 つまりこのシーンはバルガスを通して蝕の光景に飲まれた場合の、「上手くやれなかった場合の自分」を見つめているということだ。
 そして、そんな"もしも"の自分を認めないガッツは、死人の恨みを晴らすためではなく、血と肉を持った自分の戦いに身を投じていくのだ。


断罪篇 ロスト・チルドレンの章において

 さて、今回取り上げた白目表現の中でも印象的なのがこの「ロスト・チルドレンの章」だ。
 本章においては人間性と殺意の狭間で揺れ動くガッツが強く描かれているのだが、その際たる描写がここだ。

ベルセルク 16巻


 ここは明確に14巻の「恐怖を 殺意が ぬりつぶしていく」の流れを汲んだものであるが、この場面においては自分の甘さを殺意でぬりつぶそうとしている。

 そもそも、この甘さとはなにを指すのか。3度もチャンスを逃したことに対し、ガッツ本人は「あの姿に惑わされたのか!?」と自問しているが、これは当たらずとも遠からずと言ったところだろう。ガッツは子供を斬るということに一際強い抵抗があるのだ。

 話は黄金時代篇、第6巻でのユリウス伯爵暗殺まで巻き戻る。グリフィス暗殺を図った彼を殺したガッツだったが、ユリウスの息子のアドニスに見つかり、咄嗟に殺してしまう。

ベルセルク 第6巻

 下水道まで逃げ込み、微睡む意識の中でガッツはガンビーノと自分自身が化け物に殺される夢をみる。そしてその化け物の顔は

ベルセルク 第6巻

 彼自身だ。
 この強烈なイメージからもわかる通り、子供を殺した自分=化け物という自意識が芽生えているのかもしれない。ガッツの抵抗感はここから来ている。

 そして子供を斬る事への抵抗というのは他の場面でも見受けられる。

ベルセルク 第1巻
悪霊によって乗っ取られた少女を斬った直後

 なんと第1巻時点で示唆されている。黒い剣士篇は読み返すたびに黄金時代篇との対応に圧倒されてしまう。

第15巻 
同上 上のコマの次のページ 

 この場面、画像からもわかる通りロシーヌの手下の妖精たちを殺した後、人間の子供に「死んで戻った」ことを想起して吐いているのだ。
 ロシーヌがエルフに変えてしまうのは子供だけである。

第15巻 子供の悪霊を斬った直後


 さて、ガッツの子供を斬ることに対する抵抗感の根拠とその背景を語ったところで本題に入る。

 ガッツは第16巻にてロシーヌへトドメをさせなかったわけだが、殺意で自分を塗り込むことには成功している。

16巻 「家路」
「がっ!!」はガッツがトドメを刺すときの掛け声のようなものであり(ワイアルド戦など)、ここではジルごとロシーヌを斬ろうとしていたことがわかる。

 しかしそれは16巻「蛍」のラストからであり、それ以前の戦闘(羊水にて自身の火を消した後から口にロシーヌの角が刺さるまでを指す)では殺意で自分を塗り込めていなかったと考える。

 根拠は炎に隠れての不意打ちでロシーヌを殺しきれなかったことで十分だろう。

16巻

 長い前置きだった...!
 私はこのシーンを見た時、単純に使徒という理不尽への怒りや鷹の団の仇という文脈で読んでいた。しかし、それだけではない。
 "白目は過去の怒りを見つめている状態"、"ガッツは子供を殺すことに強い忌避感を覚えている"、"自分を殺意で塗り込めていない"。
 これら3つを総合すると、画像のコマが完全に白目ではない意図が見えてくる。

ガッツはこの時自身の復讐の為だけでなく、子供の命を弄んだロシーヌに対して怒っているのだ。


 その後ガッツは極限状態の中殺意に飲まれ、ジルごとロシーヌを斬り殺そうとする。結局それはジルの父親の矢で阻まれた訳だが、その際の画像がこれだ。

第16巻

 ガッツは彼が今まさに殺そうとした少女を見て震えているのだ。この震えは、「少女ごと化け物を切り裂こうとした自分」へ向いた感情の表れと思えてならない。

16巻

 ここにしたってそう。ガッツならば手負いといえどもっと早く逃げることができる、またはドラゴン殺しで矢を弾くことが可能なのにも関わらず矢を受けている。
 先ほどの震えて併せて考えると、このシーンのガッツは矢をわざと受けているように思う。

 自分が許せなかった、とまではいかないまでも、人間を殺しかけた自分に対して思うことがあったのだろう。ガッツはアドニスを殺した自分を化け物と置いていたのだから、同じことをやろうとしたという事実を恐れているともとれるだろう。

 この人間性と殺意との間で葛藤する様こそ、「ロスト・チルドレンの章」のガッツの最大の魅力ではないだろうか。


おわりに

 以上、オタクの管巻きに付き合ってくれてありがとう。
 ここまで白目表現の意味考察とそれを元にした解釈を行ったが、いかがだっただろうか。正直解釈の方に関しては自分でもこじつけ臭いと思わないでもないが、「白目で戦うのは過去の怒りを見つめているから」はガチだと思う。

 本当は縛鎖の章と生誕祭の章の解釈までやりたかったけど、

 というわけで、いつか書くかもしれんけど今回はここまで!

おわり

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