応援すること、ファンとか
すきな芸人さんが、番組内で起こした展開をファンが良く思っていない。
番組のハッシュタグを見て、否定的な意見は軒並み「ファン」のツイートであると感じる。
それか、たまたま見た興味のない人の戯言。
応援していることを何か勘違いしてるんじゃない?って、感じることが多い。
特にその芸人さんを取り囲む環境において、その違和感を感じることが多い。過去も現在も、流動的にファンは変わっているにも関わらず、そこへの「執着」が一向に変化しない。
別に応援している歴が長いことを是としてる訳でもないし、新規を拒むつもりもない。
私は、たまたま売れる前に彼らを知って、『こんなに面白いのに売れていないのは、おかしい!』と思った初めてのコンビで、私をお笑いの沼に引き入れた張本人で、重い言い方をすると命の恩人でもある。
彼らがいなかったら、とうに自分を諦めていたと言える。彼らを応援することで、どうにもいかない現実と闘う強さを貰っていた。
売れていない時の本気でもがく姿にいつも勇気を貰っていた。2人が頑張っているから、自分も頑張らなきゃと思えた。中学時代の自分の支えは「いつか売れる2人」を見ることで、2人が売れることで今の自分が全て報われると、自分自身の現状と重ねていた。
それが正しい応援の仕方だったのかは分からないし、思い入れが強くなっていただけで、もしかしたら歪なカタチだったかもしれない。
だけど、だからこそ、売れた時は本当に嬉しかった。
こんなに嬉しいことなんだと、自分の今までを重ねていたこともバカバカしくなった。
それでも、TVに出始めた頃は否定的なコメントが過半数で、それにも本気で落ち込んだ。だから、いつの頃かネットのコメントを見るのもやめた。
けど、そんな否定的なコメントに対しても『舐めるな』と。この人たちが、ここで終わると思うな。と、更に応援する気持ちは強くなった。
そんなこんなで、今も売れ続けていることが、何よりの証明で真実で、この先も活躍を見続けていたい。
見たことない景色を知らない世界を、楽しい新しい面白い世界を教えてくれるのは、13歳の時から、変わらずこのコンビだから。
んで、かなり話が脱線した。
今回の一連の展開において、このコンビを取り巻く『ファン』に心底、嫌気がさした。
元々、苦手ではあった。
他のお笑い芸人には類を見ないほど、群れるし潰し合う。
Twitter上での悪口の書き合いも何度も目撃していたし、ライブでの席取りから何から、とにかく異常なまでに仮想敵として同じファンを罵り合うのが彼らのファンだった。
売れてから、売れていなかった時のファンは見かけなくなって、ある程度の流動性はあったにも関わらず、素質が全く変わらない。
それがオンラインサロンの開設で、更に状況は悪化したようにも感じる。
コロナ禍のあれこれで模索する姿は、やはり革新的で恰好良くて更にすきになったが、閉鎖的な環境のなかでファン同士のいがみ合いは可視化されるようにもなった。
そして、すきなのに近付くと疲弊していく自分にもバカバカしくなった。
自分が応援しているのは、すきなのは「その人」なはずなのにその人を囲む状況や人にばかり目を向けて、落ち込んだ。
それらの愚痴をこぼせる友人も出来たが、どこかで群れることを拒んでいるのに「2人」という最小の集団で群れていることの矛盾に辟易としていた。
やっていることは、全く変わらないから。共感という名の共同体めいた関係は、お互いを潰しあってるように感じることすらあった。
「愚痴」と「陰口」と「悪口」の区別が私には、うまくできない。器用ではないと感じる。
そうすると極端な考え方に落とし込めるのが癖のようになってしまって、誰にも何も明かせなくなる。自己嫌悪に陥る。
愚痴をこぼすことが怖くなる。それが誰かにとっての「陰口」であったら、それは跳ね返ってくるものだと気付いて怖くなる。
誰かに「本当」を明かすことの責任や矜持や、はたまた快楽やリスクが自分を絞める。
自罰的だと分かっているのだけど、それを変えるのは難しい。全てを誰かのせいには出来ないし、それが「応援している」その人に向かうのが、やっぱり一番間違ってると思うのに、ついつい刃をそちらに向けたくなる日もあって、結局そのあと信じられないくらい落ち込んで疲弊する。自業自得としか言いようがない。
自分語りが長くなってしまった……
最初の話に戻る。
その番組の展開に対して、たしかに勢いだけで行動してるようにも見えたし、「なにか」の為に自分を犠牲にしていく姿は今までも何度も見てきたし、それが「芸風」なんて軽い言葉で済ましたくない、この芸人さんの一番恰好良くて面白いところだと思ってる。
だから、素直に番組の感想は肯定的なことしか書かなかったし、番組のリンクも載せてツイートした。
他の誰が何と言おうと、私の正直な思いはエゴサをする本人の目に留まってほしいと思った。
他のファンの人のツイートに対して、共感しない訳ではない。もちろん、悲しい目をしていたことも窺えたし、勢いだけの行動だったから冷静になって後悔もしたかもしれない。
だけど、それこそが魅力だと本気で思ってるし14年以上追いかけてきて、こういう瞬間に「変わらなさ」を感じて嬉しくなる。
がむしゃらに突っ走る姿がいつだって輝いていて最高に恰好良くて、面白い!
よく「普通のことを大声で言ってるだけだから、つまらない。」という評価を目にする。
だけど、『普通のことを大声で言うこと』の度胸を勇気を強さを、軽んじているとしか思えない。
その初動が、どれだけの新しい道を拓くのか。
そもそも、「普通のこと」をすることって実は一番難しいし、それを『大きい声』で発信することの怖さは誰もが知っているから、尻込むんじゃないのか。
お笑い芸人にとって、声を張れるだけで充分すぎる才能だし、とにかく通る声は最大の武器なのだから。
それを最大限に活かしている【芸】を、私はこの芸人さんに何度も見せつけられてきた。
だから、ずっと追い続けている。
たまにあれ?って思うことも確かにあるけど。笑
あー!全然まとまらん!!!
お笑いにしろ、音楽にしろ…ファンは作品やネタ、芸より『状態』を応援しているんじゃないか?と疑問に思うことが度々ある。
それは結婚や熱愛でファンが減ったりすることでも感じるし、「売れた」ことで離れて行くファンがいることも。
「売れない」ことで離れていくことは百万歩譲って理解出来るにしても、『売れる』ことで離れていったファンは【誰も知らない誰かを知ってる自分】に自惚れてるだけで、応援しているんじゃないんだな、と。
そして、そんな存在に寒気がする。
私は、『自分だけが知ってる』状態はすきではない。こんなに良いのに勿体ないと思う。
たしかに秘めておきたい気持ちになることもあったが、それは本当にすきだからこそ、その「すき」を誰かに傷付けられたくないという自衛心からくるものであった。
例えば、爆笑問題や太田さんをすきなことを小学校時代アピールしていた。自分にとって唯一無二の存在でヒーローだった。
けれど、中学にあがってリュックに爆チュー問題のストラップを付けて筆箱にピンバッジを付けていると度々、「変わってるね」と言われて好奇の目に晒されているのが耐えられなかった。
自分は昔から自分のことがすきになれなかったけど、爆笑問題や太田さんと向き合っている時間だけは自分を肯定的に捉えることが出来て、自分の『軸』である存在を貶されることは自分を否定されること以上の悲しみがあった。
言い返せない自分にも腹が立つのだ。だけど、腹を立てることも出来ないほどに打ちひしがれた。とにかく悲しくて仕方なかった。
いつしか人前で爆笑問題がすきなことを公言出来なくなった。否定されるのが怖くなった。どこが良いの?とか、渋いねって軽い気持ちで相手は言っているのだろうけど、その言葉にうまく返答できないから。
例え話も長くなって、更に脱線した。この時点で3000文字を優に超えている。
んで、今回の番組の展開や「右腕」という呼称は、TV的な演出として捉えた。
更に言うと、私はその右腕に名乗りを挙げた芸人さんのことを悪く思っていない。
よく知らないから、そこまで書けることもないのだけど。
以前、タイタンライブのお手伝いに行ったときにゲストとして出演していてリハーサルから見ていた。真摯にネタに向き合う姿は心打たれたし、面白かった。
リハーサルでやったネタ内容と本番はアレンジしていて、その即興性にプロとしての凄みを感じた。
帰り際に「面白かったです」と声を掛けた時の満面の笑みと低姿勢な「ありがとうございます」にその人自身の溢れ出る魅力を感じた。
だから、私の応援する芸人さんを好きな余り、簡単に片方を否定する姿を見ていて悲しく思う。
自分のすきを棚に上げて、誰かを否定する理由なんてどこにも無いはずだし、あって良いわけがない。
長くなったけど、私はどちらの芸人さんのことも同じように面白いと思ったし、恰好良いと思うし、すきだ。
すきの年数や深さは全然ちがうけど、どちらにも頑張ってほしいから、ファンの人が潰し合う姿は本当に見たくない。
当該の動画も、もし良かったら見てほしい。
しくじり先生 俺みたいになるな #129
平成ノブシコブシ吉村さんの最高な姿とそれに食らい付くお見送り芸人しんいちさんが、とにかく面白いから。
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