怒りと自分
怒りの表現の仕方が分からない。
イライラは伝染することを家の中にいて散々思い知らされてきて、自分の怒りの表現の仕方が分からなくなっていることに気付いた。
自分に対して、何かが出来なくて悔しくなったり悲しくなることはあっても、それが怒りには繋がらない。
そもそも、他者に怒りが向かうことが無い。
例えば職場に仕事が出来ない人がいて、理解が遅かったとしても、それは効率が悪いことや自分がうまく教えられないことに対してのもどかしさであって、それらがその人に向かっているかというとそういう訳でもない。
単純に仕事が自分の思うように進まないことへの焦りといえる。
そうすると、やはり『怒り』に関してはどの段階で発生し、それが他者に向かっていくのか自分の理解を越えてしまう。
感情はある程度の位置まではコントロール出来るものだと思っているし、怒りに関してはそのコントロールが一番容易なものだと考えている。
思えば、「なんであそこで怒らなかったの?」とか「あそこは怒らなきゃだめだよ。」と言われることが多かった。
相手の切実な表情から、私を思いやる気持ちがあることも承知の上で「こんなことで皆は怒ってるのか?」という疑問が浮かぶ。
こんなことを以前、友人と話していて「考え過ぎだし、イライラするならそれが怒り。怒りに繋がりそうな感情を細かくわけることで、怒りを分からないとか言ってるだけなんじゃない?」と言われてしまって、それ以上の会話にならなかったことを思い出す。そういう訳じゃないんだけどなーと内心思いながらも、それを相手には特に言わずに話題を変えた。
頭の中でぐるぐる回っている事柄の98%位は他者に向けては放たないし、何考えてるのか分からないと言われる。数分の会話で相手のことが捉えられる訳ないだろ、とも思う。そして、捉えられてたまるか、とも思っている。
自分でも自分の性格や考え方がややこしいと思っているのだから、そんな簡単に他人に理解できる訳がない。それなのに人一倍、理解されないことに恐怖を抱くんだから、また面倒くさい。
相手によって態度を変えてるつもりはないけど、自分と接したことのある人たちがそれぞれ全く違う印象を抱いてると感じることも多い。
自分のことがその人にどう見えてるか知った時、それに近い対応をしていることもある。その人の求める「わたし」を演じているのかもしれない。そこまで深く考えてる訳ではないけど。
人に嫌われることを極端に恐れて誰にでも笑顔をふりまいて、それにも疲れていた時に人に言われて救われたのは『嫌われる必要もないけど、好かれる必要もない』だった。
人と接する時に無理をしてまで愛想良く振る舞うことないんだなと思って、その言葉が腑に落ちた。
きっと今は、こんなことダラダラと書いてるけど数時間後にはどうでもよくなってるんだろうな。
なんてことない雑多なnoteになった。
下書きもなく、見直すこともなく投稿…!
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