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容姿の話とか。



自分の容姿を「気持ち悪い」と思うようになったのは、いつの頃からだったか。

恐らく周囲の人間にそのような言葉でなじられた経験はなかったと記憶しているが、物心ついた頃から自分自身を形容する言葉として「気持ち悪い」というのが相応しいと思っていた。

「何かが違う」ことは臆病な自分を更に臆病にさせ、自分を「異物」として捉えることでしか、世界との共存の仕方を知らなかったのは幼さとも表現できるのだろう。

自分の容姿によって誰かを不快にさせているのではないか?と俯きがちに歩くようになってからは、「猫背を直せ」と家族に叱責されるようになった。

そこで、やっぱり自分の見た目は『醜い』のだ、と妙に納得してしまったことも覚えている。

別に家族は猫背の指摘をしただけで、容姿については何も言っていなかった筈なのに。

そこからは更に自分自身の「存在」を疑うようになった。

周りを見渡しても、自分のように考えている人は見当たらなくて自分が異質であることだけが際立って、その「暗さ」さえも他人には見せてはいけないのだと、どんどん塞ぎ込んだ。

もはや、自分の容姿が客観的にどうなのかを確認することさえ憚れたし、恐らくその時点でなんらかの医療機関に罹っていれば、病名がついていたであろう、劣等感を抱いて過ごしていた。

それらを覆すには、自分の容姿を他者に見られない為には他の部分を磨くしかないと考えて、勉強により一層、勤しむようになった。

そうすることで、褒められることは増えたが根本的な自分自身の悩みは解決するどころか、もっと深くなっている感覚があった。

思春期の「それ」とは明らかに違う、自分の見た目への「気持ち悪さ」の原因は分かっているのだが、それを話す気も起きない。そんなジレンマとの闘いの日々が、私にとっての『思春期』だった。


思春期といわれる時代が過ぎても、それは拭い切れることはなく、いつしか「恋愛」というものへの恐怖にもイコールとして、繋がっている感覚があった。

「軽い気持ちで」何かを打ち明けられない自分が心を許せる相手は、20代を過ぎても一人もいないことに気付いていたし、それが恋愛になった際の煩わしさは想像しただけで吐き気がした。

「すき」の先は、いらない。その気持ちだけで過ごせたら、どれだけ楽か。

全てを晒すことで、それの見返りを求めることも求められることも厄介で面倒で何より怖かった。

結局、すごく「軽い気持ちで」付き合った相手と2年ほど続いたが、その状況を楽しめていたのは3か月もなかったと振り返る。

とにかく相手の表情、発言その一つ一つに真剣に向き合って、相手の求める自分を演じることで安心を演出していた。

その状態でいることが周囲との摩擦を減らせる唯一の手段だと信じていた。

会うたびに疲弊していく自分とは反対に居心地が良いと言ってくる相手の顔に嘘がなかったことが、更に私を苦しめた。

恋愛のあるあるで「女性は昔の話を蒸し返す」みたいなことも聞いたことがあったから、その場で言えなかった不平不満は、そのまま自分で持ち帰ることにしていた。

そうやって関係を続けていくことに何の価値も無いことは自分が一番よく分かっていた。

相手の好みに合わせて、相手の趣味嗜好に興味があるふりをして、化粧をして振る舞う自分は「女」という一つの型には容易にハマれたが、「自分」という型は失っていた。

何が書きたかったのか分からなくなってきた……容姿の話か。

んで、ちゃんと恋愛というものをして分かったことと、消化出来なかった言葉は、やっぱり自分の容姿に関するものだった。

誰かに認めてもらっても、それ自体が払拭されることはないのだ、と。そして、特に異性から言われる言葉には下心が多分に含まれているから、一番深く傷付くことにも気付いた。

そして、別れを告げるときはあまりにも唐突で、それで相手を困らせた。そんなことを言う相手の顔を逆にもっと歪ませてやりたい、とその時には好意なんて感情は皆無で、憎悪に近かったと振り返る。

結局、具体的な理由は告げることもなく、周囲に別れたことを告げ、「どうして?」と聞かれたら「疲れたから。」と淡々と答えた。

少し前にこの話を知人に話したら、
「きっつ!!やっぱり、〇〇さんと付き合う男の人可哀想やわぁ〜〜」と言われた。

「いや、お前に何が分かんねん。」と、その人につられて関西弁が出そうになったが、そこは冷静に「そうですかね?」と笑って誤魔化した。

「そやろ?だって、絶対〇〇さん、めっちゃ厳しく当たりそうやもん〜〜こっわ〜〜付き合いたないわ、そんな女の子〜〜」

その後も「お前に何が分かんねん。」のオンパレードで気付いたら、その場に立っているのがやっとだった。

そもそも、なぜかその人に終始「キツイ人間」と評されていることが疑問だった。

それらの言葉は、帰りの電車でも、家に着くまでの帰り道も、家に帰ってきてからも消化できることはなく、気づくとポロポロと涙が溢れていて、自分でも驚いた。

あの日ほど、夜で良かったと思うことは今まで生きていた中でなかった。


どうすりゃ良かったんだろう、と思うし…やっぱり自分は面倒臭い人間だなと思う。

そういえば、やっと心を許せる友人が数年前にできて、その友人と話していて見つけた一つの解は「自分が努力しているか」によって、相手の言葉の捉え方が変わるのだと。

だから、私は自分の容姿に対して拭えない劣等感を抱いていて、そこに「触れられること」自体が不快なのだから、うまく喜べない。

だが、自分が考えたことや思いついたことに対して「面白い」と言ってもらえることは、自分自身が真剣に取り組んだ結果としてのものだから、素直に感謝を伝えられる。

って、長々となんの話をしてるんだか。

微熱で頭おかしくなってるのかな。あ、頭おかしいのは元々か。

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