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夢のほつれ目

 大きな地震が来る前に、九州か沖縄のあたりに引越しをしようと考え、はるばる下見に行った。
  チャーリーと遊覧船のようなフェリーに乗っている。デッキに出て外を見る。そよ風は海の匂いをたっぷり含んでいる。もしかしたら、噴火している桜島が見えるのではないかと、遠くに目を凝らす。でも、それらしき島は見当たらない。
 甲板は広い。チャーリーの姿は見えない。気の向くまま、デッキで散策でもしているのだろう。
 この辺りの島でも陸地にでもいいから、借りて住めるような物件が出ていないだろうかと、通りすがりの船員を呼び止めて聞いてみた。調べてくれるそうだ。私についてきてくださいと言った。
 白の上下の服に船員の制帽をかぶり、四十歳前後のすらりとした、あくのない男である。特に親切でも、逆に無愛想でも、そのどちらでもない物腰は案内に慣れた船員という印象を私に与えた。男のきびきびした、やや忙しそうな歩調に信頼を寄せて、私は後ろに従った。
 船の中央から船室に入るとそこは船員だけの領域で、船客の姿はなかった。男は大きな鉄製の扉を開けて、先へと進む。しだいに外の音が遠ざかって、沈黙の世界へ入っていくようだった。
 また一枚、重そうな鉄製の扉から奥へと入っていく。ここまで来ると、私一人でデッキへ戻るのさえ難しそうに思える。
 奥へ奥へと、あるいは船倉のほうへ下へ下へと進んでやっと男が立ち止まった所は、もう誰の目からも隔絶された個室だった。
 私は何が起こるのか予想できた。男が振り返った。私のほうへ手を伸ばした。私は恐怖で耐え切れそうになかった。もうこの先はいらないと思った。そう、私はこれが夢であるのを知っていた。だから夢にストップをかけた。その時点で夢は幕を引いた。私は怖い目に遭わずにすんだのだった。

 船になど乗っていない私は猫を抱いたまま、食卓の脇で午睡をとっていた。きな臭い刺激で目が覚めた。床がくすぶっているではないか。なにかと思ったら、5センチほどの長さの蚊取り線香が煙を出しているのだ。
 同じ長さのものが床に二本じかに並び、その二本ともに火がついていた。すぐに蚊取り線香を床から拾い上げて火を消す。そして間髪を容れず、チャーリーに叱責の言葉を投げる。
「危ないじゃないっ! 火事になっちゃうよ。床にいきなり置くなんてさ。まったくなに考えてんのよぉ。危ないって、思わないの!」
 するとチャーリーが反論をする。
「だいじょうぶだよ。俺がここで見てるし……。その長さじゃ、火事になんかならないよ」
 なにを言っても反論するチャーリー。
 いつまでたっても言い合いが続き、けっきょくは私の絶叫で幕を閉じる、そんなパターンに今日もなりそう。
 考えただけで疲労困憊だ。私はそれを悟っている。だから口をかたく結び、怒りに耐える。
 床に目をやると、蚊取り線香のあった所は黒く焦げている。
 古くなって傷みが進んだ床板だから、小さな黒焦げが痕を残したって、目立つほどの汚れではない。と、チャーリーはきっと、そんな程度の認識しかないのだろう。
 火に焼けた焦げ痕も、物が落下したときにできた傷も、後になってみれば同類の痕跡でしかない。
 人は自らの認識をおうおう変えない。世界のあらゆる場面で、人は人とぶつかり合い、自分を正当化し、相手を憎み、争い、泣き、苦悩し、いつしか地上から消えてゆく。

 誰かが寝ている私の肩をたたいたので目を開けた。車椅子に腰かけた白髪のチャーリーが、私の耳元近くで歯のない口を動かした。
「バアさん」と呼んでいるように唇が動いた。

 この今も夢のほつれ目だとしたら、夢の終わりはどこにあるのだろう。

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