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猿に会えた日

 チャーリーが帰宅する前に、私は街へ出かけた。最寄りの駅から私鉄に乗った。乗り込んだ電車はがら空きで、座席は半分も埋まっていない。

 途中駅に停車したところで、私は顔を捻って外を見た。
 線路より一段下、梅の木がまばらに生えている畑に猿が一匹いるのが見えた。私は驚いて、近くに腰かけている少年に教えようと、口を開きかけた。
 少年は私の言いたいことを瞬時に理解し、教えるより先に〝知ってるよ〟という素振りを示した。
 私は少々がっかりし、再び外へ目を転じた。すると猿が増えている。一匹いたのが、三匹、四匹、五匹といるではないか。〝まあ、まあ!〟と驚いていると、電車のドアが閉まった。

 走り出す直前に、私のいる最後尾の車掌室から、男性車掌が外へ向かってなにかをパラパラと投げた。猿の餌のようだ。群れがいっせいに走り出した。落ちた餌を両手で拾い、次々と口に入れている。

 電車はゆっくり走り始める。警笛が鳴った。
 電車の警笛は三種類ある。大中小と音の大きさが違うのだ。そのいちばん小さい音が鳴った。運転手が鳴らしたこの小さい音は「さようなら」のあいさつなんだ。私にはそれが解った。
 運転手は音で、猿にあいさつを送っている。猿と電車との心暖まる交流に、私の目から涙があふれそうになる。これはぜひともエッセイにしたためなければ……。
 離れゆくホームには「こねずみ」と駅名が出ていた。
 最近は、知らないあいだに陸続と新駅が誕生する。この「こねずみ」という名の駅も、新しくできたばかりの駅だ。象虫に着くまでに、あと二つぐらいは新しい名の駅に停車するのだろう。

 うたた寝してるうちに象虫駅に着いて、電車から降りた。
 ホームは高い所にあるから、地上へ出るには階段を降りていかなければならない。階段は、粗雑なコンクリートブロックで出来ていた。休む所もなく、いっきに二百段ぐらい続いている。足を踏み外しでもしたら、とどまるところなく、ごろごろと落ちていってしまうのは必至である。
 注意深く、注意深くと自分に言い聞かせながら降りていく。

 ようやく地上へ降り立った。
 西象虫の街には雨が降っていた。私は傘を持っていなかった。せっかく象虫まで出てきたのだから、街を歩きたい。
 傘を買うのがまずは先決だ。デパートは駅に直結していたから、濡れずに傘を買ってしまえるなあと、売り場案内板を眺める。
 四階に傘売り場があるようだった。エレベーターで行こう。
 エレベーターはすぐ前のカフェを突っ切った奥だ。客がコーヒーカップを口に運んでいる間を縫って、奥へと進む。

 厨房の脇に、きれいとは言えないエレベーターの乗り口があった。
 まるで小荷物を運搬するかのような簡易型のものである。錆が浮いているみたいな色をしたエレベーターの扉が開くと、一台の金属製の駕篭がぶら下がっていて、中に入っていた男が駕篭の扉を押してフロアーに出てきた。駕篭は卵形で、人ひとりがかがんで入れるくらいのサイズしかない。
 男と入れ替わりに、私は金属の駕篭に収まった。1メートルほどの高さしかない容器のなかで中腰になって、私は金属の駕篭の編み目に指をかけて、猿のようにつかまっていた。

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