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共同生活をやめました~わらじ荘を出て思うこと~

『5ヶ月前の僕にこの文章を読ませたら、「もっと頑張れよ」というと思う。5年後の自分もきっとそういうだろう。けれど、これが10ヶ月わらじ荘で共同生活をし、5ヶ月間カルペを営業してきた今の僕の全てだ。』

これはちょうど2ヶ月前、わらじ荘を出るときに書いた文章の書き出しだ。今はわらじ荘を出て、一人暮らしをしている。春から社会人になる準備をしながら、絵を描いて、本を読んで、映画を観て、自分のために料理を作って、たまに友達と飲み会をしながら日々を過ごしている。わらじ荘にいる時はなかなかできなかったことばかりだ。
日々自分のペースで生きていくというのはとても楽しい。これから社会人になったら出来ない贅沢な時間の使い方を。そして人生を豊かにする時間の使い方をどんどんとしていきたいなと思う。僕は、友達と何もせずにゴロゴロとしている時間が好きだ。何もしない贅沢を噛み締めて、どうしようもなく幸せな気分になる。今思うと、やっぱりわらじ荘とはちょっと違ったなと思う。けれどそんなことを感じる自分は間違っていると思い込んでいて。出来ない自分も、出来ないことを責めてくる人も信じられなくなっていて、あの頃の僕はあまりに追い詰められていたなと思う。


僕がわらじ荘に住み始めた理由
下沢杏奈から連絡が来たのは2019年の9月。ちょうど僕がポルトガルでの料理修行を終え、ウクライナに移り、料理修行をする為のクラウドファウンディングをしていた時だ。「大企業の広告媒体として協賛を受け学生でシェアハウスをしながら丁寧な暮らしをしていきたい。その為にクラウドファウンディングについて教えて欲しい」と言われた。正直クラウドファウンディングは周りの人に恵まれて進んでいただけだったので、うまくアドバイスできた気はしなかったが、魅力的な活動が函館で始まっていることにワクワクしていた。それから1ヶ月後僕は日本に帰国する事になった。
杏奈から2回目の連絡が来たのはその時だった。日本に居てする事がないならシェアハウスに来ないかという誘いだった。僕はその頃春から始まる就活に向けて、東京でアルバイトしながら準備を進めて行こうと思っていた時だった。けれど、1ヶ月前のワクワクが蘇り、函館行きを決めた。
2週間後、荷物を積み込み、言われた住所に向かうと和洋折衷の趣ある素敵な古民家があった。後にわらじ荘となる旧野口梅吉商店だ(実はこの時の名称はゆるくらすLABOだった)。ここではきっと素晴らしい生活が待っているんだろうと期待に胸を踊らせた。僕を出迎えてくれたのは現わらじ荘荘長の岸本すみえ。落ち着いた物腰で建物の歴史や活動について教えてくれた姿はそう言えばすごく頼もしかった。けれど、ここで大企業の協賛がなくなった事、ガスが通ってなくお湯もシャワーも使えない事、まだ誰も定住していない事を知らされる。おいおい下沢杏奈!と思った(今でこそテキパキと仕事をこなす彼女だが、この当時はかなり適当だった)けれど引っ越しは済んでしまったからしょうがない。そんな訳で僕は旧野口梅吉商店に住み始めた。

ただ生きる
旧野口梅吉商店に住み始めたは良いものの、生活環境は最低限以下だった。まず、ガスがないからシャワーには入れない。誰も定住してないから基本的な電化製品がない。大好きな料理もカセットコンロでやるしかない。洗濯機も無い。どんどんと気温が低くなり、何もかも凍り始める。今考えるとどうやって生活していたのだろうと思う。そしてきっと周りの人たちもそう思っていたのだろう。沢山の人達が僕らの生活を良くしようと、差し入れをくれたり、電化製品をくれたり、シャワーを貸してくれたりした。その支えのお陰で今があることを決して忘れてはいけないなと思う。そのうちとーま、すみえが住み始め、それに遅れて杏奈が住み始めた。発起人なのに住むまでに時間がかかったこと、この時文句は言えなかったけれど、今なら言えるのでこの場を借りて言っておこうと思う。
とにもかくにも毎日生きるのに精一杯でまだまだ旧野口梅吉商店も掃除が行き届いて居なかったこの頃、寒さもあって僕らにとっては居間だけが生活スペースだった。それでも高校生を呼んで泊まりがけのイベントを行ったりしていたのは本当に無謀というか、すごい事だったなと思う。この時の出会いが今に繋がって、後にさやかやささべが入居することになる。
正直この期間の記憶はイベント以外にあまり無くて、みんなを学校に送迎するかアルバイトをしてるかだったような気がする。ポルトガルとウクライナに行く為に使ったカードの返済に追われていたし。けれど、その合間のみんなとの温かな時間がとても心地よかったのは確かだ。

転機
ポルトガルで修行してきた僕の料理を食べてみたいとわざわざイベントを組んで機会を与えてくれたのが本町でBARevit等を経営するゆっきさんだ。1人2000円で10人前とお話を頂いた。正直この頃の僕はポルトガルで学んだことを消化し切れていなかった気がする。けれど精一杯のワンプレートを仕上げ、沢山の人に褒めて頂いた。原価計算や分量もうまく考えれてなかったので、想定していた原価を超えたにもかかわらず、ゆっきさんは僕に少し多めに給料をくれた。感謝しかない。そしてこれが僕が初めて岩崎豪としての料理で稼いだお金だった。間違いなく僕の人生の分岐点であったと思う。
その後旧野口梅吉商店の改修や今後の活動を広げていく為に何をするかという話合いの中で、僕がお店を持つ事が案として出され、実現に向けて動いていく事になる。
そういえばその為に始めたんだったなと、思い出を書き起こしながら再確認した。

わらじ荘
わらじ荘という名前に決まったのが12月の初め。きちんとそれが根付いたのはきっと3月くらいのことだったように思う。とにかくみんな二足のわらじを履いて自ら活動していこう。喫茶店がしたい、古着屋がしたい、先生になりたい。みんながそう思っている中自分は料理だった。とにかく荘の為に何かお金を稼ぐ事をしなくてはと思っていた。そして僕は就活をやめ、わらじ荘でお店をオープンする事を決めた。けれど新型コロナが流行するうちにお店の開業がどんどんの実感のないものになっていった。2、3月と4月のオープンに向けて1番頑張らなくてはいけない時期に僕のやる気は全く無くなってしまっていた。この時期よく杏奈と揉めた。荘のメンバーが帰省していて2人で過ごす時間が長すぎたのもある。何をしても他のメンバーと比べられることにうんざりしていた。僕にはボランティ精神はないし、無償の頑張りを求められても困ると強く思っていた。また、杏奈がどんどんと『おうちが図書館』で脚光を浴びていったことへの焦り、そしてなによりそれがわらじ荘の生活環境の改善に少しも直結しない事に苛立ちを感じていたのだ。けれど、この時の出会いや繋がりがあるからこそわらじ荘は今の形でいられると思うと、本当に杏奈はすごいなぁという気持ちでいっぱいになる。もうちょっと手伝ってあげられたら良かったなとも。

心の平穏そしてオープン
春になったら問題は全て解決した。
そう、寒くないのだ。
僕らの心に余裕が生まれた。
あと、コロナがより一層猛威を振るい学校側からお店のオープンにストップがかかった。
悩みの種は全て無くなり、オープンに向けての準備もより入念に出来る様になった。料理でコラボをさせて頂いたり、イベントをさせて頂いたり、告知も多くさせて頂いた。この時期は不安もありつつ期待でいっぱいだった。
そんなこんなで迎えたオープン日6/1沢山の方にお祝いを頂き、応援して頂いている事に少しプレッシャーを感じながらも充実した日々が始まった。
毎日が成長だった。原価計算から在庫管理、毎日違うメニューで提供する事へのプレッシャーとやりがい。学ぶことばかりだった。日々の仕込み、サービス、函館にあまり流通していないビールの仕入れや勉強、新しい調理法の勉強、そして学生として授業を受けること。めまぐるしい忙しさの中ミートハウス(現みなも荘)を作る事が決定した。今思うとここから段々と自分と荘の活動が分かれていったように思う。

イベントの成果
7月の初めわらじ荘で最も大きなイベントがあった。来場者数は150人を超えていた。その中で自分の担当は料理やお酒を提供する事だった。仕入れやメニューに悩み、1日かけて仕込み、提供を行なった。イベント自体は大成功。けれど収益が全く立たなかった。正確にいうと売り上げは大きかったが、あまりに支出が大きすぎたのだ。この当時までカルペとわらじ荘の収支は一本化されていた。だからイベント費の大半をカルペの収入で賄う事になっていたのだ。その他生活にかかる諸経費に関しても同じだった。けれど正直僕の生活はアルバイト無しでは成り立たない。そんな中アルバイトをする暇もなくカルペそしてイベントを行っているのにわらじ荘の活動はちっとも生活を楽にしてはくれないとフラストレーションがたまっていた。当初考えていたカルペでわらじ荘運営を支えるという目的も薄れ、段々と僕がお店をやっている意味が自分の為になってきていた。
話し合いの末、カルペからは利益のパーセンテージでわらじ荘にお金を入れることとし、収支を別にする事が決まった。

院試そして
少し時間は巻き戻るが、お店を持って数週間。既に僕の中には焦りが生まれていた。このままじゃ続かないと感じていた。そもそも料理人としての知識も経験もあまりに足りてないんじゃないかと、必死に勉強しながらも、明日突然メニューが思い浮かばなくなってしまうんじゃないかという不安が常にあった。夢の中でもカルペで働いていて、失敗の悪夢に追われていた。だから、公立函館未来大学の院に入ってデザインを利用した学術的なアプローチで新たな料理を作っていきたいと思った。そうすればちゃんと驚きや感動を伝えられるんじゃないかと。結果的に試験に落ち、進学は叶わなかったが、もし受かっていたらどんな料理に辿り着いたのだろうと考えると少しワクワクする。

荘とカルペ
先にミートハウス(みなも荘)の設立は自分と荘の活動が別れる一因となったと書いたが、大学院の受験、収支の分離等などを経て僕はわらじ荘においてプレーヤーとなっていた。運営メンバーではなくである。人数も増え、様々な人材が入ってきて、荘の運営に携わりたいという人が出始めて、僕はそこに興味を見出せなかった為運営から完全に離れる事となった。そして今、様々な補助金や企業の援助公的支援で荘の収支は回り出そうとしている。その流れの中で僕自身がわらじ荘にいる意味はカルペを経営する事だけになった。

これから
院試に落ちてから杏奈と今後についての話をした。わらじ荘の店舗スペースは学生の為のスペースにしたいので、もし春から学生でなくなるのならば出て行ってくれないかとのことだった。院試を受けたのは今の自分に限界を感じたからだった。その状態でわらじ荘以外でお店を構えるのは無理だと思った。だから、就職をし、社会経験をつみ、料理に対しての向き合い方を考えながらもっと勉強していこうという意思が固まった。カルペを営業しないのであれば僕にとって荘に居る意味はあまりない。そうして僕は卒業することを決めた。

と一連の流れについて書いてきたけれど、正直わらじ荘を辞めた理由はもっとたくさんある。けれどそれについて言及してもしょうがないので、今思うことを書きたい。
わらじ荘での体験は人生にとってすごく為になると思うけれど、かなりストレスを抱えていたのも確かだ。死にたいと思って夜の海に飛び込んだ事もあった。そして、辛ければ辛いだけ何かを得られるというのは日本の悪しき思い込みである。辛い時期に得られた学びは、生きてりゃなんとかなるという事だけだ。大人数向けの料理を作る事、絵を描く事、DIY、サーフィンをする事。わらじ荘にいて得た人生のエッセンスはどれも楽しい思い出の中にある。
ゆるくらすLABOがわらじ荘になった時、既に僕の住む場所ではなくなっていたのかもしれない。けれど、カルペをやれたことは本当に良かった。次やる時はもっとお客様に喜んでもらえるようなサービスができたらなと思う。
楽しいことが好き、美味しいものが好き、ダラダラするのが好き。自分に正直すぎる僕は本当にわらじ荘に向いてなかったなと思う。そう思って自己嫌悪に陥っていた事もあった。けれど、わらじ荘を出てから改めてそんな自分を見つめると、悪くないなと思う。めちゃくちゃ自分らしく生きてていいじゃない!と。
僕には夢がある。それは誰かに教えてもらったものでもないし、辛くきつい道のりの末に達成するものではなくて。まだまだ知らない美味しいもの、楽しい事、素敵な時間を過ごしながらたどり着くはずの夢だ。
僕には夢がある。社会貢献だとかみんなに何かを与えるだとか、そんな大それたものじゃないけれど。僕の周りの人が楽しく暮らせる社会の中で叶ったらいいなと思うそんな夢が。
だからやっぱりまだまだ色んなことしていかないなと思う。何より自分が楽しむことを大切に。きっとそれが一番長く続くだろうから。そして何より、そんな人生ワクワクしないわけないじゃないか。

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